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読書記録「街道をゆく 越前の諸道」司馬遼太郎著

朝日文庫
1987

街道をゆくの中で唯一、天皇について触れている(といっても継体天皇)のが"越前の諸道"だと知り、興味が湧いた。
また、永平寺に行きたいなと思っているところでもあった。

ここでも司馬の高度経済成長の日本への幻滅が感じられる。
永平寺には一応訪れたもののすぐに退散している。

やがて永平寺に近づくと、客を吐きだしたバスが多くうずくまっていて、さらにゆくと、団体客で路上も林間も鳴るようであり、おそれをなして門前から退却してしまった。私どもは、遠く本道上まで逃げて、息を入れた。

道元が晩年につくったのが永平寺。永平寺の俗化は道元の死後、第三世徹通義介から始まるとされる。義介は、宋に倣って永平寺も大伽藍にすべきだとして、大伽藍とその経営方法を学ぶ為に宋で学んだ人物。
その後、義介は内部抗争に敗れて加賀へと去るが、その法系が加賀大乗寺を根拠地として大いに栄えることとなった。
本願寺が西と東に分かれているのもあり、曹洞宗の寺の数は最大だという。

それに反対したのが、宋から道元を慕ってやってきた僧、寂円。
道元亡き後、義介への反発もあってか山に入ること18年、その後宝慶寺を開山。只管打坐のみを唱えた道元の禅風を最も継承したと思われるのが寂円だという。

越前、加賀、飛騨の3国にまたがっているのが白山。白山権現の寺に平泉寺というのがある(明治期に白山神社とされた)。
この平泉寺とその白山衆徒には手厳しい。

「平泉寺」というのは、何のために日本の社会に存在したのであろう。仏教がここで深まったということもなく、学問が興ったということもなく、人民のくらしがよくなったということもない。単に暴力装置としてのみ存在したかに思われる。

司馬によると、白山衆徒は農民を見下し、搾取する対象としてしかみていない節があるという。

「白山権現」というものは、まことに農民にとって厄介な神であった。その上、このあたりの農民は、ほとんど例外なしといっていいほどに一向宗(本願寺・浄土真宗)の門徒なのである。一向宗においては、阿弥陀如来以外の宗教的存在を認めず、神などを拝むのは、「雑行」としてかたく禁じている。このため、農民は白山権現をありがたい存在などとは思わず、ひたすらに迷惑な存在であるとしてきた。

同様に本願寺にも手厳しい。

…(本願寺門跡が)織田勢のために草のように刈り殺された門徒たちの供養をしたという話はきかないし、その後の本願寺においてもそういう法要があるという話はきいたことがない。
馬鹿を見たのは、殺された門徒である。

開祖の思想から離れて政治化してしまった宗教団体への嫌悪がここまで書かせるのだろう。

そして、最後に触れられていた越前焼。
司馬遼太郎の文章の巧みさ故だろう、陶芸村に行ってみたくなった。

最後まで読んでも、やっぱり永平寺には行ってみたい。出来れば空いている時に。


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