【映画月の満ち欠け 感想】母と見上げた月を思い出した
人間にはいつか必ず死が訪れる。
肉体が生きる活動を全て止めた瞬間、もうその肉体が蘇ることはない、
少なくとも現代の医学では。
私は両親を若い頃に亡くしていて、有難いことにどちらの最期にも立ち会うことはできたのだけど
その悲しみの消化の仕方は1度目も2度目もまるで分からなかった。
その後人生で色んな岐路に立たされる度、もし今両親がここにいてくれたら、と思ったことは数え切れない。
でもどれだけ願っても目の前に現れることはないし、もう二度と声を聞くことすら叶わない。
「死」に対してそんな現実的な経験をしてきた私が、原作も読まずあらすじもよく調べないまま観た月の満ち欠けは
『命の生まれ変わり』を題材としている物語だった。
少しSFめいているようなところもあるように思え、ファンタジーやSF作品が苦手な普段の私なら、きっと観る作品の選択肢に加わることのない作品なのだけど
観た後の私の胸の中にあったのは
雑踏の中でまだ見ぬ誰かを探したいような、そんな気持ちだった。
そして、ほんの少しの不思議な怖さもあり、原作を読んでみたくなった。
生まれ変わり、輪廻転生、私自身はそういった類は信じてるとも信じてないとも言えない。
ただ、少なくともこの世に科学で解明できない事象というのはあると思っている。
私は映画評論家ではないのであくまで個人的な感想を綴っていこうと思うのだけど
この作品にはいくつか、2つの物語を繋ぐワードが出てくる。
そのワードが出てくる場面がわざとらしくなかったのも物語にすっと入っていけた要因のように思う。
『瑠璃も玻璃も照らせば光る』
『どら焼き』
『新婚の夫婦のやりとり』
これらのワードによって2つの離れた時間軸が繋がった時、私の胸にあったのはなんとも形容しがたい切なさと悲しさとそれぞれの思い出が語る儚さだった。
映画作品の限られた時間でも主人公の小山内が妻と娘をどれだけ愛していたかということが丁寧に描かれていたので十分に伝わってきたし
その2人を亡くした時の小山内を演じる大泉洋さんが慟哭するシーンはさすがに残酷でしかなく
その後1人になり実家に戻ったシーンでは別人のような険しいやつれた顔をしていて、
ありふれた表現になってしまう自分の語彙力が情けないが、役者 大泉洋の凄さを思い知った。
もうひとつの軸となる有村架純さん演じる瑠璃と目黒蓮さん演じる三角のシーンは
なにかに例えるなら、まるで炉から取り出したばかりのガラスのような繊細さと情熱と、掬った手の平からさらさらとこぼれていく砂のような虚しさが共存していて
小山内が妻や娘に向ける愛情が温かなオレンジ色ならば、瑠璃と三角はまさしく夜明け前の空のような紫と青が混じった瑠璃色だった。
三角と瑠璃が愛し合うシーンはよくこの層の俳優さん達にありがちな綺麗に描かれるラブシーンではなく、感情のままに求め合う様が痛々しくて
台詞では描き切れない2人の関係と瑠璃の心の危うさも表現されていたと私は思う。
瑠璃を失った後の三角が出てくるシーンでは
映画を観る前に読んだインタビューで
目黒蓮さんがこの作品の撮影中は情緒不安定になって泣きながら撮影に向かったというエピソードを語っていたのを思い出して
目黒さんがどれだけ真正面から三角という役に向き合ったのか、アイドルの枠に収まらない俳優としてのこれからの未来が見える気がした。
生まれ変わりや前世の記憶は個人的に信じられる部分も信じられない部分もあって作品を観ながら少し冷静に捉えていたけれど
それでも、もし二度と会うことの出来ない大切な人と別の肉体を通じて触れ合うことができると言われたら
きっと自分はそれでもいいから会いたいし触れたいと願うだろうと思う。
今これを書いている私の頭上にある月は、母が生きていた時に母の病室で母と一緒に眺めたあの月と同じで
この間に何度も何度も満ち欠けを繰り返しながら、変わらずずっとそこにあり
そしてこの月はいつか私が命を終える日にも、同じように空に必ず浮かんでいる。
輪廻転生や生まれ変わりを信じることはできなくても
もしかしたらこの世のどこかに、
もう会えない大切な人とリンクする何かがあるのかもしれないと思わせるこの作品は
消化できないまま胸の奥底に淀ませていた私の喪失感の、すぐそばにそっと置いておきたい映画になった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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