書くという自慰
「脳の自慰」を考えている。「自慰」、性的な意でばかり使われてかわいそうな言葉。
書くことを始めたからかもしれない。文字を垂れ流すようになってひと月。予期せぬ変化があった。
ここ1、2週間やけに目覚めが良い。普段と違うことと言ったら、それしか思いあたらない。自分の体ではないように、するりと寝床から立ち上がることができるのだった。
起きている間中、脳味噌に刻まれた傷を上からなぞることに忙しなく、酷使したそれを休めるのに多分な睡眠を要する質。
書いている間は、言葉を紡ぐことだけに没頭できている。確実に、なぞる時間が削られたのだ。
認知行動療法も禅の思想も、私好みで生活に取り入れて数年経つ。実践するのは修行のように難しく、これから何年もかけて定着を目指さなければならないというのが所感。
書き出すことの精神的効能は知っていた。
中学生の頃、テレビから得た知恵をいっとき素直に倣ったことがある。一冊のノートに汚らしい言葉を書き殴る。知らぬ間に親に見られていたことに気が付いてやめてしまった。
当時は、ちっとも楽にならないではないかと思っていた。それもほんの何回か取り組んだだけ。だからこそ、惜しみなく自然とやめられた。
語彙力が乏しかったためではなかろうか、と思う。加えて表現力も。おそらく、馬鹿やら阿呆と書き付けるだけでは「脳の自慰」に至らない。むしろそれは、傷をなぞるのと同義ですらある。
私はどうして傷付いたのだろうか、相手にはどういう背景があってああした言動を取ったのか、この心のわだかまりをどう表現したら酷く不快に思わせずに伝えられるだろうか。
こうした立場で書き出せたものが良質な内省であって、自己を理解することで安心感を得られる。これが「脳の自慰」なのだろう。
憤りも悲しみも誰かを傷つける前に自らの手で慰めたい。気持ちよく書いて、見られて満ちて触れた人の糧となる。そうした言葉をしたためられますように。
生きる糧