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フライパンを買い替えて生活を取り戻す本『私の生活改善運動』(安達茉莉子)

卵焼きを作る。フライパンに焦げつく。私は膝から崩れ落ちた。

その程度のことで、私は痛く、参ってしまう。

例えば、職場の隣のババアが嫌い。
ババアの発する小言、独言、嫌味、痰の絡んだ声、過剰なタイピング音、ヒステリックな言動、行動、あらゆることが勘に触る。

例えば、電車が嫌い。
100デシベルの走行音。不機嫌な車掌の声。永遠に繰り返される甲高い発着メロディ。意味不明にスピーカーから流される鳥の鳴き声。なぜ副都心線はこんなに地下に潜るのか。今が乗っているのは埼京線なのか、湘南新宿ラインなのか。同じホームから常磐線と高崎線と宇都宮線を出すな、紛らわしい。

例えば、池袋が嫌い。
池袋は汚い。ドブの匂いがする。立ち並ぶのはチェーン店。駅は構造がめちゃくちゃ。改修しろ。ずっとこのまま行くつもりか。「西口(北)」ってどういうことだ。東口にある西武と西口にある東武、ふざけんな。

私は毎日ババアのヒステリーを浴び、電車の不条理に目眩し、池袋の喧騒に迷子する。そうして家路に着く。

知らぬ間に、右手には缶チューハイ、左手には西友の半額弁当。

眼下には汚れた食器をため込んだシンク。排水口からは嫌な匂い。机の上にはいつ読んだか分からぬ本、雑誌から小銭、レシート、飲みさしのペットボトル、酒瓶、未開封のプラ製先割れスプーン、椿油、ウナコーアクール。
洗濯物は溢れかえっている。替えのパンツがない。

この家はHome住処、本拠地、療養所ではなかった。そこは安らぎはなく、私はAway消失、離脱、休むまもなくしてしまう。

ふと部屋にいて、「私は今ここにいて幸せだと感じることがある」そう思えることは幸せなことだ。

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西友の250円の弁当をかっくらい、酒で流し込む。味覚中枢をアルコールで麻痺させる。どんなものでも満足するように体はできている。
が、今日はなぜだか物足りない。
何か一品作ろうか。

冷蔵庫には、賞味期限を三日はすぎた卵が二つ。後は空。

フライパンに、黄色く濁ったサラダ油を流し込む。

このフライパンは上京する時に、母からもらい受けたものだった。鍋とセットになっていて、取手が取れて収納しやすく、テフロン加工で焦げ付きにくい。
上京する時、母はフライパンと一緒にロールキャベツと茶碗蒸しのレシピをネットから印刷して渡してくれた。
なぜロールキャベツと茶碗蒸しという一癖あるレシピなのか疑問に思ったが、別れ際だったので言わないでおいた。
少しでも暖かいものをとの親心だったと、こちら側では受け取っておく。
とは言いつつ、この二つのレシピは重宝した。米の研ぎ方もわからなかった若造には、母が渡してくれたこの紙切れは、私の胃袋を養うに助かった。
次第に、料理のレパートリーも増えていった。野菜炒めから始まり、チャーハン、ハンバーグ、ピーマンの肉詰め。魚もフライパンで焼けることも知った。
貧乏学生だったので外食はできなかった。惣菜を買うのと、自炊とどちらがいいか思案した末、食べたいものを食べたいだけ作れる点から、私は自炊をしていた。

それが今や。酒に弁当。

卵をシンクの角に叩きつけヒビを入れ、フライパンの上に落とす。箸で卵黄を崩し、砂糖と醤油を入れる。砂糖は思ったより多く、醤油は思ったより少なく。かつての自炊の日々から発見した経験則だった。

卵に火が通ると、四方をめくり上げて、折り重ね、形を整える。
コンロの火を止め、皿を用意する。フライパンを持ち上げ、傾斜をつけ、皿に卵焼きを滑り落とす。

その時だった。

卵焼きは、大方の予想に反し、フライパンを滑降することなく、静止。寸の間の後、重力に耐えきれず落下。皿の上で卵焼きは四散した。
フライパンには黒い焦げがこびれついていた。
テフロンが剥げていたのだ。

飛び散った卵焼きは、不幸の象徴であった。
私は幸せになりたい。
だから、フライパンを買い換えることにした。

それは自分にとっての心地よさ、快・不快を判別し、より幸福な方に向けて生活の諸側面を改善していく自主的で内発的な運動だ。

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調理具といえば合羽橋だ。

地下鉄浅草駅を出て、浅草寺や花屋敷がある隅田川方面を背にして、歩くこと数10分。

合羽橋のシンボル、ニイミ洋食器店の髭のおじさん。

幼少期、料理好きの親に連れられてここに来たことがある。
商店街の店先に並んだ見たこともない道具の数々に興奮した覚えがある。
魔法のランプの形をしたカレールーの器、体の大きさほどある業務用の中華セイロ。貴婦人がティーパーティーで使うであろう、5段式ケーキスタンド。

目当ての店はあったが、ついつい寄り道をしてしまう。子供の頃は店前の品々で満足だったが、今度は店の奥まで入ってみる。
照明は暗く、料理人御用達の地味な道具が並んでいる。
竹籤たけひご、すり棒、すり鉢、蕎麦ひき臼、五徳・・・渋い品々がかっこいい。
その中に、あった、鉄製フライパン。

フライパンを新調するにあたり、今回はなるべく上等なものを選ぼうと考えていた。
調べると鉄製フライパンはテフロン加工に対して、手入れが面倒で、使いこなすのにコツがいる。反面、使うたびに味が出て、手入れ次第では一生使える、
まさに料理の友とのことだった。
このフライパン新調は私の生活改善運動の第一歩、妥協したくなかった。
コスパや手軽さではなく、”心地よさ”を大事にしたかった。
愛せるフライパンを買いたかった。

その白銀色の鉄製フライパンはビニールに包まれ、「プロ御用達!」「軽い!手入れも簡単!」とPOPが貼り付けられていた。サンタクロースのような白髭をたくわえたコック姿の老人が、フライパンをふり、肉が宙を舞うイラスト。値段は3,980円。安い。
質もいい、値段もいい、使いやすい。コスパがいい。
しかし、なぜか惹かれない。グッとこない。”心地よく”ない。
私は経済合理性を捨て、その場を去った。

道具街を進んだ先、目当ての店は「飯田屋」。
飯田屋は大正元年創業、プロ仕様でありながら、家庭でも使える品々を揃える、人気店である。
狭い店内に並ぶ品々は、どれもイケてる。
フォルムの可愛さ、かっこよさ、色味、機能性、一点一点が輝いている。
その中で、異彩を放つ、真黒なフライパンがあった。

turkタークだ。

tark CLASSIC FRYINGPAN
無骨な出立がカッコいい。

黒鉄の中に、錆にも似た銀色を見せるそのフライパンは、ドイツ製。
一つの銑鉄を職人が一枚一枚叩いて形成する。つなぎ目のない一枚鉄なので丈夫さが違う。
表面には、独特の色斑まだらがみえる。不均一な黒が表情を見せてくれる。
持ってみると、重い。1kgはある。普通のフライパンの2倍だ。
重すぎて振れない。きっとチャーハンは作れない。

が、この重さに痺れた。かっこいい。
現代的な製法を選ばず、純粋な鉄から古典的製法によって作られた証。歴史の重み。
不便であること、不均一で不格好なことが、愛せた。カッコ良かった。

飯田屋を30分ほど物色した末、turkをレジへ持っていった。

レジに向かうと、老翁というべき風格の店員が奥から出てきた。

悲喜交交ひきこもごもが皺に刻み込まれているような、そんな顔だった。
レジに置かれたturkをみると、低くぶっきらぼうな声で「ちょっとお待ちくださいな」と、また店の奥へ引っ込んでいく。
数分経つと、同じフライパンを5枚ほど持ってきた。
「それぞれ形と色が微妙に違うので、好きなものを選んでくださいな」
確かに並べられたフライパンは、それぞれ醸し出す表情が異なっていた。
角張っているもの、小ぶりで丸みをおびたもの、ムラが激しく無骨もの、白味がかって柔らかさを感じるもの。
同じフライパンなのに、それらは別のフライパンだった。
「あの、すいません、ちゃんとしたフライパンを買うのが初めてで・・・どうやって選んだらいいですかね?」
恥を忍んで聞いてみる。
翁は少し息を止め、言った。
「そりゃあ、お客さん、自分がいいなと思ったものを選ぶんですよ」
体をスッと風が通り抜けた。

私は並べられたフライパンの中で、一番形がいびつな一枚を選んだ。職人がハンマーで何度も叩いた痕が残るフライパン。工業製品の中に、人の姿が見えるような一枚。
「じゃあ、これでお願いします」
と、翁に渡す。
翁は受け取ると、表面、底面、取手部をじっくり見た上で、
「いいですねぇ」
と言い、フライパンをこちらに手渡し、目を見て言う。
「こいつでベーコンなんか焼いたら、さぞ美味いでしょうなぁ」
翁のニヤッと笑った。
翁の皺は初めより深くなっていた。

「ほんまに、人生は選択の連続やなあ」(中略)「やけどな。人生は短い。しょうもないもん使ってる場合やあらへん」

p47

鉄フライパンは買ってすぐ使うことができない。

まずシーズニング油ならしが必要になる。
フライパンを金ダワシで擦り、ワックスを取り除く。
その後、鉄表面に油を塗り、そこに塩、じゃがいもや人参の皮といった野菜クズを入れて炒める。これにより鉄の表面に油膜をなじませる。
この工程に20分かかる。
めんどくさい。
が、楽しい。
ワクワクしながら金ダワシを動かす。

シーズニングが終わると、早速調理だ。

食材はもちろんベーコン。付け合わせは、シーズニングで皮を使ったジャガイモとニンジン。
包丁を使うのなんて何時ぶりだろうか。
ジャガイモに包丁を当てると、硬い手応えを感じる。
今まで栄養としか認識していなかったジャガイモが、野菜であり、植物であり、生命であると感じる。

野菜を切り終わると炒めに入る。
再びturkを火にかけ、油を注ぐ。パチパチという音が楽しい。

湧き立つ鉄板のうえにベーコンを乗せる。
肉からは水分が飛び散り、表面から黄金色の油脂が滲み出る。その油脂が鉄板に触れると、たちまち蒸発し、肉の芳香を部屋中に撒き散らす。
ベーコンから油が滲み出るのに対比して、野菜たちは貪欲に油分を吸い込んでいく。
旨味と香りを一身に吸収したジャガイモは、土色の中にみずみずしさを蓄えていく。
ニンジンは香味野菜としての役割を十分に果している。ニンジンの香りはベーコンから発せられる湯気に混ざり、新たなかぐわしさを生み出している。

火を消し、肉と野菜を皿へ。

鉄板に残った油脂も惜しいので、野菜の上にかけていく。
されば実食の時。

味については多くは書かない。美味。当然だ。これだけで十分であろう。

厚切りベーコン270円。ニンジン82円。ジャガイモ65円。総額417円。
幸せはすぐそばにあった。

食べ終わると食器を洗う。
鉄フライパンは放置すると錆びてしまうので、使用後すぐに金ダワシで洗い、水分を飛ばすために、空焚きする必要がある。

口内に残った油の味をたしかめつつ、洗う。水に濡れたturkを火にかける。
鉄板の上の水滴が形を変えながら、蒸発していく様を眺めながら。考える。

明日は何を食べようか。

我が家のtark。いい色に育ってきた。

自分の手で作ったものを食べると、自分の手から出たエネルギーが食材にまわり、熱になって口から戻り、体の中を循環するような気がする。静かに満たされる。

pp112

私の生活改善運動はその後も続いた。

数日後、私は花瓶を一つ手に入れた。そこには駅前の花屋で買った、小ぶりなリューココリーネを生けた。

数ヶ月後、祖母の家から小さな壺をもらった。知り合いの陶芸家から安くもらい受けたが使い所に困っているらしく、玄関に放置されていた。
灰色と深緑色が斑に入り乱れ、形はどこかゆがんでいて、それがとてもキュートに見えた。
私はそこに水をはり、水草を浮かべ、めだかを買うことにした。
今はちょうど産卵期。水草に卵を産みつけ、それが育ち、稚魚が元気に泳ぎ回っている。

その数ヶ月後、私は仕事をやめた。
もうババアの小言を耳にすることはない。毎日電車に乗る用もなくなり、池袋に降りることも当分ないだろう。

不幸な日々とはおさらばだ。私は生活を取り戻す。幸せになる。

私は少しずつではあるが、自分で自分の生活を作り始めていくようになった。自分が見て幸せになるものだけを残し、そうでないものは捨てる。つまらないことはやらない。好きじゃない場所には行かない。(中略)幸せのほうへ行っていい。それには時間がかかるかもしれない。労力はめんどくさいかもしれない。だけど、タイル一枚だけでも磨いていくように手が触れた箇所だけでも吹いていくように、少しずつでも手にいれていけば、必ず生活は全体として変わる。そんな生活が続き、やがて人生のトーンも変わる。

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