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【古代】藤原清河(720年〜777年)

7世紀から9世紀にかけて日本は大陸の進んだ技術や文化を習得するために、遣唐使を派遣した。大帝国唐王朝への遣使は今とは想像を絶する困難を極めた。それでも、中央集権化を進め、天皇中心の国家体制の整備を邁進する日本は危険な航海を冒して海へと渡った。この意味で遣唐使の果たした役割は非常に大きい。

明治新政府が西欧から、国際法を始めとして、欧米の進んだ技術や文化を学んだように、遣唐使の彼らがもたらした新知識は日本の発展に寄与した。遣唐使として派遣されたものの多くが、帰国を果たせず、東シナ海の藻屑となっていった。当時の航海技術の未熟さや外交関係の悪化により安全な航路を進めなかったことが原因としてあるが、国家の使命を受けた若者たちは大海原へ繰り出した。

藤原清河は藤原北家の祖、房前の4男として生まれ、順調に官職を進めていく。藤原北家はのちに冬嗣が出て、天皇家と結びつき摂関政治という一時代を築く家柄だ。清河は752年、遣唐大使として海を渡り、玄宗皇帝に謁見し、君子人なりと賞賛を受けた。

 春日野に 斎く三諸の 梅の花
 かすがのに いつくみもろの うめのはな

            栄えてあり待て 還り来るまで
            さかえてありまて かへりくるまで

                                                                                     『万葉集』

清河は家族に帰国を待つ歌を詠み、大陸へ渡った。翌年に行われた元日朝賀の日、当時中国皇帝を中心とする帝国世界観がある中、周辺国の使節は皇帝に礼をとる。その際に周辺国間での席次が問題となるが、清河は朝鮮よりも席次が後ろであることを抗議し、結果的に日本が第一の席次となり日本としての面目を保った。

その年の12月、在唐35年に及ぶ阿倍仲麻呂や唐の高僧鑑真を伴い、帰朝の途につく。しかし、4つの船は沖縄本島から奄美に向かう途中で風に流され、日本に到着すること叶わず、清河と仲麻呂の船はベトナムに漂着した。現地の民に多くの船員が殺されたりするなか、命からがら唐の都長安に帰り着いた。この時、鑑真が乗る船は無事日本に帰着し、日本は戒律が伝わり、仏教は新たなステージに進むこととなった。

帰着叶わなかった二人は、唐朝で官職を得て、出仕することとなった。その後、759年に清河を迎えるための使節が日本から派遣されたものの、唐朝は安史の乱の混乱を理由に唐朝に出仕する官人である清河の出国を拒否した。そのため、清河の帰国は叶わず、その後2度遣唐使派遣が計画されたが、国内の混乱を理由に派遣が中止され、清河は777年、唐にて没した。

遣唐使は20回計画が立ち、派遣は16回であった。清河の没後、遣唐使が派遣されるたびに清河の死を悼んで、清河に贈位が行われ、最終的に正一位という最高位となった。

遣唐使は、古代日本にとって非常に重要な使節であり、その後の日本に果たした役割はあまりにも大きいにも関わらず、誰が何をした、どんな事があったという部分が顧みられないことが多いと感じる。日本に帰ることが叶わなかった阿倍仲麻呂や藤原清河のような人物が何を思い、偲び異国で果てていったのかを想像することは彼らがそこに確かに存在したことの証となると思う。


歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。