見出し画像

【近世】大岡忠光(1709年~1760年)

大岡忠光は1724年に第8代将軍徳川吉宗の世子徳川家重の小姓となり、家重との関係がスタートします。そして、この二人の関係は唯一無二のものとなりました。

1745年に父、吉宗から将軍職を譲り受けた徳川家重は、言語不明瞭と言われていました。幼い頃の熱病が原因で、言語障害があったのです。しかし、そんな家重の言葉を聞き分けられたのが、少年時代から関係の深かった大岡忠光でした。側用人となった大岡忠光は将軍の耳となり口となります。

ある時、将軍が鷹狩りで出かけたとき、家重は急に癇癪を起こし、暴れ出しました。側を離れていた忠光のところに対応を聞きに行くと、将軍の様子を聞いた忠光は、「上様は喉が渇いたと仰っている。お水を差し上げなさい」といいました。その通りに、お水を家重に差し出すと、家重はニコニコと機嫌を直しました。またある時、江戸城で家重が癇癪を起こしました。忠光はその様子を聞いて、「上様は寒いと仰っている。毛布を掛けて差し上げなさい」その通りにすると、家重はニコニコと機嫌を良くするのでした

幕閣にとって、将軍にとって必要不可欠な人間となった大岡忠光でしたが、大岡忠光は決して、驕ったり暴政を振るうことなく、将軍を常にたて、将軍の影に徹します。

そんな二人の関係は突然、終焉を迎えます。

ある時、大岡忠光が花見の会で将軍に出すお茶菓子について大奥女中と話をしているとき、「このおまんじゅうがいいのではないか?」と忠光が言うと。女中は「いえ、ダメです。そのおまんじゅうは、上様はお嫌いです。」と言いました。「そんなはずはない」と反論しましたが、間違っていたのは忠光でした。

それは、以前の茶会での話。例のおまんじゅうが出ましたが、いつも忠光が食したあと、将軍家重が食し、将軍が美味しかったか、不味かったかを忠光が代弁していました。しかし、この時は忠光は、おまんじゅうが忠光の嗜好にあい、とっさに「美味しい!」と言ってしまったのでした。はっとした忠光は家重の顔を伺うと、ニコニコと美味しそうに食べていました。その時忠光はホッとしました。「美味しい」が間違いではなかったと思ったからです。

忠光は、将軍の言葉を代弁しています。そこに間違いがあってはいけないのです。将軍の命令で死刑の宣告などもされています、そんな将軍の言葉に間違いがあっては、将軍の権威そのものに傷がつきます。常に細心の注意を払って忠光は生活をしていました

しかし、あの「おまんじゅうの件」はやはり、忠光が間違っていました。将軍家重はおまんじゅうが口に合いませんでした。にも関わらず忠光を立てて、一瞬だけ顔をしかめましたが、すぐにニコニコと笑顔に変えたのでした。

それを知った忠光は、引退を決意します。

退職届を出した忠光は、将軍家重に呼ばれます。二人の最期の会見でした。この時、二人に言葉は交わされません

突然どうしたと顔の表情でしめした家重に対して、忠光はおもむろに懐からまんじゅうを差し出します。例のまんじゅうでした。

全てを悟った家重は、驚いた表情をしめし、手を一度横に振ります。

そんなこと、きにするな。という合図でした。

それに対して、忠光はゆっくりと顔を横に振ります。

いけません、けじめですから。という合図でした。

家重は、大きく息を吐き、首をたてに力強く振りました。

ならば仕方ない、大岡らしいな。

そして、大岡は去って行きました。それ以来、大岡忠光が江戸城に登ることは一度もありませんでした。1760年、大岡が死去すると、家重は将軍職を子の家治に譲り、その翌年死去します。

二人は、真実の信頼関係で結ばれていました。家重を暗愚な将軍という人がいますが、彼の治世で幕府を揺るがすような事件は一切起きていません。平和な時代でした。そして、大岡という友人がいた家重は幸せな男だったと思います。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。