見出し画像

【近代】北一輝(1883年~1937年)

片目の魔王とよばれる北一輝を紹介したいと思います。彼は、1937年2月26日に発生した二・二六事件の際、直接的な関与はないものの、この事件を実行に移した陸軍の青年将校達に思想的影響を与えたという理由で、逮捕され軍法会議にかかり、非公開・弁護なしで一審判決で死刑となり、執行されました。この事に関する賛否は様々だと思いますが、彼の生涯を知ることは、なぜこのようなことが起きたのかを知る手がかりとなると思います。

佐渡に生まれた北一輝は、父と母、それに姉と二人の弟に囲まれて育ちました。16歳で重い眼病に罹り、義眼となります。その頃から、孝徳秋水や堺利彦などの社会主義思想に触れ、これに熱中するようになります。社会主義とは、貧富のない世の中で、みんなが幸せに暮らすにはどうしたらいいかを模索する考え方です。貧富のない世の中にするためには、私有財産制を否定する人もいますし、支配階級を打倒しようとする人もいます。

しかし、資本主義を是認し、国家を発展しようと考えている当時の日本では私有財産制は否定できないもので、天皇制による国家の統治も否定できないものです。日本で社会主義を浸透するためには、社会主義を掲げる代議士が選挙で当選し、国会で社会主義的政策を法律化していくしかないのです。ただ、当時の政府は社会主義を危険な思想と見なし、弾圧します。なぜなら、当時の日本は今よりもずっと貧富の差が激しく、大多数が貧乏人でした。社会主義の名の下に、多くの小作人や都市労働者が団結されたら、国家の発展に障害となるのです。だからこそ、彼らに選挙権を与えず、制限選挙のもと社会主義思想の国会議員を出さないようにしていました。

そんな中、北一輝は早稲田大学で社会主義研究に没頭し、その後中国で起きた辛亥革命に参加し、革命運動に身を投じていきます。社会主義研究の第一人者で革命にも参加している北一輝の知名度は年を追うごとに高まっていきました。そして、1923年北一輝が書き上げた書物が『日本改造法案大綱』でした。彼の思想は、天皇制を否定するものではありませんでした。北一輝にとって天皇は父なるもの、母なるものであり親愛なる存在で、天皇と我々の間を隔てる"特権階級"が、日本のいびつな状況を作り出しており、これを排除することが国家改造につながるというものでした。

特権階級とは、党利党略にはしる政党であり、財閥であり、一部の特権的な元老、軍部、宮中関係者でした。これらを排除し、新たな政権が天皇の意思を等しく民に伝え、資本の集中を排し土地の開放を行い、皆が暮らしやすい世の中を作ることが北一輝の主張でした。

そして、これに共鳴したのが、寄生地主制のもとで貧しい生活を強いられた小作農出身の青年達でした。彼らをまとめる隊付きの青年将校は、軍人としてより良い日本を作りたいと心の底から思っています。彼らは北一輝の『日本改造法案大綱』をバイブルとして、常に胸に仕舞っていました。

そして、1937年2月26日、陸軍青年将校たちは軍事クーデターを決行する。昭和維新をスローガンに天皇親政を目指して、総理大臣邸、大臣大蔵私邸、新聞社、内大臣私邸、侍従長官邸、参謀本部、警視庁などを占拠し、多くの被害者を出した。これに昭和天皇が激怒し、「反乱軍」として戒厳令が出され、徹底的に鎮圧される。

冒頭でも述べましたが、北一輝はこれに直接関与してないにも関わらず、銃殺刑となり亡くなっています。この時陸軍内部では皇道派と統制派の対立があり、陸軍士官学校・大学校出身のエリートで構成される統制派はこの事件を皇道派によるものとして、皇道派を徹底的に排除し、陸軍で主導権を握ると共に、陸軍の政界進出がより進む契機としていきます。

そして、総力戦体制に向けた統制が強まり、天皇制を国体論として強調することで、社会主義だけでなく、自由主義・個人主義を抑圧する社会が到来してしまったのです。

革命を起こし、人を害するようなことは決して許されることではないが、いろんな価値観・考え方をもって主張し、意見をぶつけ合うことは大事なことだと思います。自分と違うから排除したり、聞かないのではなく、様々な意見を取り入れてよりよい社会を築いて欲しいと考えさせる北一輝の生涯でした。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。