流れがわかる日本史⑨

新年明けましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします。さて、シリーズとしては続きとなります。本日は摂関政治のあとの政治体制、院政についてお話ししたいと思います。

摂関政治は藤原道長とその子、頼通の時代に全盛期を築きましたが突然終焉を迎えます。時代は平安時代中期、10世紀の後半から11世紀の中頃にかけてでした。その後、頼通の娘が皇子を産まなかったことから外戚関係が崩れ、ついに藤原氏と外戚関係にない後三条天皇が即位するのです。

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当時、後三条天皇は皇位継承権を有しながら、藤原氏によって即位を阻まれ既に30歳を超えていました。ようやく、藤原頼通は後三条天皇の即位を容認し、即位という運びとなりました。当然後三条天皇は藤原氏に対して不満があります。即位した翌年、1069年に発した法令は、「延久の荘園整理令」でした。これは、当時、藤原氏の荘園、つまり私有地が拡大し、公領を圧迫していたので、これを徹底的に没収するのです。これは今まで、藤原氏の時代には決して出来ないことでした。そして、藤原氏に対して不満を持つ、他の氏族や地方の受領層はこれを支持して、協力します。

そして、後三条天皇の次に即位したのが白河天皇でした。この白河天皇は1086年に息子の堀河天皇に譲位しますが、依然として天皇家の家長として絶大な権力を握ります。ここから院政という政治体制が進んでいくのです。ここから、天皇家の家長が譲位した後も権力を握り続ける院政が誕生するのですが、これは、当時の婚姻形態の変化もありました。この頃から、生まれた子供が必ずしも母方の家で育てるのではなく、夫婦が独立する形や、嫁入り婚といって夫の家に嫁が入るという形に変わっていきます。そうすると、摂関政治という形態が終了するのは自然な流れだったということです。

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そして、白河天皇が譲位して白河上皇となり、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の時代に絶大な権力を握り、その後、鳥羽上皇・後白河上皇の時代、約100年間を院政期と言います。崇徳上皇が院政を行えなかった理由としては是非、私の人物史にある崇徳上皇をご覧になっていただきたいと思います。

さて、この時代は中央による地方支配が緩み、地方で武士が発生していく中で地方の戦乱が増えていく時代でもありました。そして、断続的にな疫病や飢饉が発生する中で、人々は救いを求めます。そして以前から中央で広まっていた浄土教というものが爆発的に地方に広がっていくのです。貢献したのは聖や上人と呼ばれるどこにも属さない遊行の僧でした。彼らが、心の救いを人々に授けるのです。中尊寺金色堂や、白水阿弥陀堂、富貴寺大堂、三仏寺投入堂などはこの時代の地方の阿弥陀堂建築として有名です。

そして、中央では、上皇は出家し、法皇となり造寺造仏を盛んに行い、熊野詣や高野詣と呼ばれる寺社参詣も盛んに行い、浪費をしまくります。すると、経済的に奉仕する人間を優遇し、実力のある人物も適した職につけなかったり、僧が増長して、要求を通そうとして僧兵を擁し、武装化したりするようになります。

政治は乱れていきました。そのような中で、上皇に対して、経済的奉仕を行うとともに、北面武士としてみのまわりの護衛を行うことで権力の階段を登っていったのは平氏でした。これから平氏の時代がやってきます。「祇園精舎の鐘の音」から始まる、平家物語の主人公平家ですが、盛者必衰の理の通り、その一時代は夢幻の如しでした。この平家の話はまた次回にさせて頂きます。

ちなみに平氏政権の次は、関東に独立政権である鎌倉幕府が誕生し、日本の政権基盤はこの武家政権が明治時代まで続くということになります。しかし、藤原北家は摂政関白に常に任命されるし、院政も続きます。武家政権はその支配の正統性として朝廷からの政権委任に依っている部分があり、朝廷は一定の権威が必要でした。そのため、朝廷は天皇家の家長が院政を行い、藤原氏が関白となり、これをサポーして、年中行事や先例を重視することで権威を維持しようとします。

そのおかげで、朝廷は途絶えることなく万世一系の天皇が日本の最高権力者となり、現在まで至ります。皇位継承に関しては皇室典範が明治時代につくられ、戦後改定されましたが、男子にしか皇位継承権がなく、現天皇の娘である愛子様には皇位継承権はありません。故に次は現天皇の弟、秋篠宮となり、その次はその息子の悠仁親王ということになります。余談となりましたが、そうやって天皇家はその血筋を絶えることなく守り続けてきたのです。ただ、現在天皇は日本国の象徴であり、国民統合の象徴ですので、そのあり方も民意を反映させる必要もあるのかもしれません。




歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。