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【近世】信念を貫いた男 新井白石

新井白石をご存じだろうか?中学校や高校の歴史の教科書にも登場する人物だから名前くらいは知っているという方も多いのではないだろうか。

新井白石は江戸時代、6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継の侍講(君主に学問を講義する役目)として政治を主導した人物である。とても立派な学者であることは間違いないが、実は新井白石はかなりの苦労人である。人生で二度も浪人、つまり無職を経験した。また浪人中、政治的な力で働き口を封じられてしまった時期もあった。それでも、自分の信念を貫き、学問を修めた結果、彼は将軍の側近として正徳の治と呼ばれる政権運営者にまでなったのである。そんな彼の生涯を辿ってみたい。

新井白石は明暦の大火と呼ばれる江戸で大火事があった1657年に、焼け出された避難先で生を受ける。父である新井正済に将軍家旗本として、武士としての矜持をたたき込まれ、「一升の米も一粒一粒入れてこそ、満たされる」という言葉を胸に日々の学問に励んだ。1677年、白石が20歳の時、白石の父、正済は新しい主君である土屋直樹と衝突し、藩籍を剥奪される。そして、旧藩主土屋直樹の画策により、再就職が難しい状況に追い込まれてしまった。1度目の浪人生活である。新井家は困窮し、その日の暮らしもままならない状況になるが、白石は儒学や史学の探究を続けた。

その後、旧藩主土屋直樹が狂気を理由に改易となると、新井白石は再就職が可能となり、堀田正俊に仕えることになった。当時、儒学は江戸幕府の教学とも言えるほど重要な学問であった。天下太平の世の中になると、幕府は武力による統治ではなく、徳治による政治を志すようになる。農工商の上に立つ者としての儒学の要素が武士に強く求められる時代だったのだ。儒学は武士としての心構えはもちろん、政治経済学、民政、国家統治論など幅広い学問を内包しており、これを究めた儒学者は政治アドバイザーとして諸侯に求められたのだった。

しかし、堀田正俊が江戸城中で若年寄の稲葉正休に刺し殺され、白石は再び浪人となる。どんなに辛い境遇でも彼は儒学の探求だけは続けた。1686年、白石は29歳の時、高名な儒学者である木下順庵の門に入ることになった。入学金が払えない状況だったが、木下順庵は白石の儒学に対する真摯な姿勢に打たれ、これを免除した。木下門下では雨森芳州(対馬藩の侍講)や室鳩巣(後に徳川吉宗に仕える)と出会い、大いなる刺激を受けた。師である木下順庵は白石のために加賀藩前田家の再就職の斡旋に一肌脱いでくれたが、仲間である岡島忠四郎から「加賀にいる母の面倒をみさせてもらえないだろうか?」と頼まれて、前田家の仕官を岡島に譲った。

そして、1693年、白石が37歳の時、いよいよ仕官が決まる。甲府徳川家の藩主徳川綱豊であった。この綱豊が後の6代将軍徳川家宣であった。5代将軍徳川綱吉は、綱豊の叔父にあたる。綱吉に継嗣がいなかったため、綱吉の兄である綱重の子綱豊が将軍となったのだ。そして白石は侍講という立場で学者ながら、側用人間部詮房と協力して天下国家の運営を行うようになったのだ。1710年、新井白石53歳の時である。決して、順風満帆な人生ではなかった。そして正徳の治を主導するようになったのも、巡り合わせであった。ただ、白石は自分の信念を曲げたことは一度も無かった。正しいと思ったことは必ず貫き、間違ったことは間違いであると否定した。5代将軍綱吉が制定した生類憐れみ令を廃止したのも白石だ。新井白石は綱吉から、この法度だけは今後も継続するように達しを受けていたが、綱吉の死後さっさと廃止した。綱吉の墓前で白石は「民が困っていますので、法度は下げます。ただし、私の心の中で生類憐れみ令は生きています」とぬけぬけと言った。

自分に嘘をつくことが出来ない、それでいて困っている人がいたら放っておけない、そんな新井白石がとても好きだ。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。