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【戦国】前田利常(1594年~1658年)

 前田利常は「バカ殿様」だったのでしょうか。

 前田家は加賀百万石の大名として江戸時代を生きぬきました。その初代前田利家の四男が加賀三代藩主となる前田利常です。前田家は徳川家の警戒にさらされるなか、お取り潰しの憂き目から逃れるために懸命に生きぬいていきました。そして、文化事業にも力を入れ、加賀友禅や九谷焼など様々な伝統文化が今でも残っています。2015年に北陸新幹線が開業し、金沢駅までのアクセスがよくなり観光客も年々増加しています。そんな前田家を守り抜いた3代目藩主前田利常はどのような人物だったのでしょうか?


 戦国武将である前田利家(利常の父)は豊臣秀吉の盟友であり豊臣政権下で五大老の一人として、めきめきと野心をむき出しにする徳川家康にとって最期のとりでとなっていました。しかし、秀吉が亡くなり、1599年についに前田利家が亡くなると、徳川家康の天下取りへの動きが加速します


 2代目藩主前田利長(利常の兄)は徳川家康に警戒されますが、母であるまつを江戸に人質として差し出すこと、徳川秀忠の娘珠姫を利常と結婚させること、利長は早々に隠居することなどの条件で、前田家の命脈を保ちました。しかし、徳川家康は前田家を警戒し続けました。1616年4月、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我に対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたといいます。

 利常は治世の間、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧みにかわして、120万石の家領を保ちました。他の多くの藩が改易や転封の憂き目に合う中、前田家は外様大名の中でも別格の待遇を受けるまでに至るのです。内政において優れた治績を上げ、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励しました。

 さて、前田利常がバカ殿と揶揄された理由は何だったのでしょうか?それは利常が幕府からの警戒を避けるために、わざと鼻毛を伸ばして暗愚を装っていたと言われています。家臣が見かねて手鏡を差し出すと「これは加州・能州・越中の三国を守り、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛じゃぞ」と言い放ったそうです。また、病気で江戸城出仕をしばらく休んだ後、酒井忠勝に皮肉を言われ、「疝気でここが痛くてかなわぬ故」と満座の殿中で金玉袋をを晒して弁解した話もあります

 さらに、江戸城中に「小便禁止。違反者には黄金一枚の罰金」との札が立てられると、ことさらにその立て札に向かって立ち小便をし、「大名が黄金惜しさに小便を我慢するものか!」と言い捨てたそうです

 殿中で頭巾をかぶることは禁止とされていましたが、利常は頭巾をかぶって登城しました。そこで目付が何度も注意しましたが、利常は脱ごうとしませんでした。そこで目付は老中の松平信綱に言上したが「殿中頭巾が禁止のなのは利常殿のようなご老体のことではない。お上のご趣旨を間違えるな。それも分からぬとは不届き千万。重ねて申すでない」と叱ったそうです。次に目付は大老酒井忠勝に言上したが「心の狭いことを申すな。あのような真似のできる気骨ある大名が今の世に他にいるか。そのままにしておけ」と言ったといいます。前田利家の甥に有名な前田慶次がいますが、本当にかぶき者の一族だったのでしょう。

 利常はバカを装うことで徳川家の警戒を解き、そして、予想外で豪胆な振る舞いも振り切れることで、周りの者から別格扱いを受けるまでになったのです。江戸の加賀藩邸は現在、東京大学があります。本郷の赤門は加賀藩の門だったのです。藩主の力によって、加賀藩は、現在につながる歴史の礎を作ったのでした。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。