【現代】井上準之助(1869年~1932年)
日本銀行の総裁にして、大蔵大臣を3期務めた井上準之助が人生最大の勝負に打って出た政策が1930年の金解禁でした。
金解禁とは、金輸出解禁という経済政策です。戦前の国際経済体制は、金(ゴールド)と各国通貨の等価交換を約束しており、この体制をとると、各国は金の保有量によって紙幣の発行量が制限されるため、物価が自動調節され(輸出が増えれば金保留量が増えるため、紙幣が増発でき、物価が上がる。反対に輸入が増えれば、金が流出し、紙幣発行量が減るため物価が下がる)、また外国為替相場は固定されるので、貿易は安定します。
当時1円は金0.75グラムに相当し、1ドルは金1.5グラムに相当していました。つまり、1ドル=2円で外国為替相場は固定され、動揺したりすることなく安定するのでした。現在は、1ドル110円前後で推移している変動為替相場ですので、違和感があるかもしれませんが、戦前は金(ゴールド)との交換を約束することで、貨幣に対する価値を与えていました。戦後の経済体制は若干の修正があり、1970年代初頭までは、ドルが金と等価交換を約束し、ドルと各国通貨を結びつけるブレトンウッズ体制が続き、この体制下で日本の円は、1ドル=360円で固定されていました。(今から考えるとかなり円安です。)
さて、話を戻しますが、井上準之助は第二次山本権兵衛内閣の蔵相として、関東大震災発生後の経済危機に対応しました。日本は1920年代、戦後恐慌、大戦恐慌、金融恐慌と相次ぐ経済不況に見舞われ、それに対して、日本銀行の非常貸し出し(紙幣増発)で対応していたため、経済界の整理が遅れ、国際競争力が低下していました。おまけに、インフレ傾向が続いていました。
1929年、再び浜口雄幸、若槻礼次郎内閣において大蔵大臣に就任した井上準之助が打ち出した政策が、金輸出解禁でした。1917年、第一次世界大戦中に金本位制から離脱して以来、日本は金本位制に戻れていない状況でした。井上は、金本位制に復帰することで、国際社会での信用を高め、為替を安定させて輸出を伸ばしていこうと考えました。
そのため、慢性的なインフレ傾向にあったので、緊縮政策をとり、産業合理化を進め、企業体質の健全化と物価下落を図り、1931年1月金解禁を断行しました。緊縮政策は増税、産業合理化は人員整理を意味します。つまり経済の健全化のためには、国民は一時的な痛みを伴うものでした。しかし、長期的に見て、日本経済を立ち直らせるためには必要な政策であり、1929年大蔵大臣に就任すると、政治生命をかけて、国民に丁寧に訴えていきます。国民も井上準之助の真摯な姿勢に、支持する声が日増しに高まっていきました。
しかし、1929年から始まる、ニューヨークの株価大暴落は世界を巻き込む経済不況に広がり(世界恐慌)、日本もその影響を受けてしまいました。つまり、世界的物価下落のため、日本がいくらデフレ政策を進めても国際物価が下回ってしまい輸出が伸びず、金が流出し続けたのでした。このままだと、日本の経済不況が続き、立ち直れない状況に陥ってしまいます。金輸出再禁止の判断が迫られます。井上準之助は、その判断を下す前に、満州事変の勃発に伴う内閣総辞職のため、次の蔵相高橋是清(井上とは親しい仲)が金輸出再禁止、積極財政による経済回復に舵を切ります。
井上準之助の経済政策は、世界恐慌の見通しが甘かったため、失敗に終わりました。しかし、政策的には間違っていませんでした。残念ながら井上準之助は、日本を経済不況に陥らせた元凶として1932年に暗殺されてしまいます。この時代の政治家は、政治生命どころか命をかけて政策実行を図っていたのでした。井上準之助の経済政策は理念として誤っていなかったことは特筆しておきたいと思います。