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【中世】梶原景時(1140~1200年)

 源平合戦とよばれる、源氏と平氏が熾烈な争いに明け暮れる時代、もとは平家側の武将として源頼朝と対峙した人物が梶原景時であった。後に、頼朝の側近となり、「一ノ郎党」という高い信頼を勝ちとり、源義経と対立すると、梶原景時の讒言を入れ、頼朝は義経を討伐した。この事が遠因となり、頼朝の死後、梶原景時は鎌倉幕府での立場が悪くなり、追放され、討伐されてしまう。

この梶原景時とはどんな人物であったのであろうか。紐解いてみたい。

梶原氏は後三年の合戦で関東・東北で名を馳せた源義家の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に走っていた。

治承4年(1180)頼朝が挙兵すると、梶原景時と大庭景親は頼朝軍と交戦する。石橋山の戦いである。この時、頼朝勢は勢力整わず、惨敗に喫している。頼朝側は山中の洞窟に隠れていると、残党刈りに出ていた梶原景時がこれを見つける。しかし、このとき梶原景時は攻撃することを止めた。彼は、咄嗟に「この場で交戦すれば、仲間に負傷者が出る、それよりも助けて今後、源氏の世の中になったときにの借りを作っていた方が利がある」と判断した。

「私の名前は梶原景時、以後お見知りおきを」とだけ言って、仲間には「こっちにはコウモリばかりだ、あっちを探そう!」と言ってその場を離れていった。

その後、頼朝勢は千葉県に逃れ、そこから陸路で東京~神奈川へ移動する間に東国武士が馳せ参じ、1181年になる頃には大軍となっていた。この頃、大庭景親は討ち取られる変わりに、梶原景時は頼朝に降伏し、その後御家人に列することが出来た。

富士川の戦いに勝利した頼朝は、それ以降、自らは西進せず、鎌倉を拠点に関東武士団の基盤づくりに邁進した。平家を追いつめていったのは弟の義経と範頼が率いる軍勢であった。この軍勢に侍大将として梶原景時は参加した。平家側は清盛の死や、養和の大飢饉による平家政権に対する庶民の怨嗟の声などにより次第に劣勢となっていった。

1183年には、都落ちをし、1184年とその翌年、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いにより平家は滅亡。安徳天皇は入水し三種の神器と共に海中に没した。

この一連の軍事行動の過程で、総大将源義経と侍大将梶原景時の対立は決定的となる。梶原景時は、事務能力に優れ、源義経の言動をつぶさに記録し、文書にして鎌倉に送っていた。源頼朝が弟である義経に疑惑の念を抱いたきっかけはこの書状にあった。

結果的に義経は、頼朝によって滅ぼされ、頼朝は平家に続いて奥州藤原氏も滅亡させると朝廷から右近衛大将、次いで征夷大将軍に任じられ鎌倉に日本初の武家政権を打ち立てる。

頼朝・頼家と二代に渡り将軍に仕え、忠心を尽くしてきたが、一方で他の御家人には非常に厳しく、ことごとく将軍に讒言し、その処断を請うたことから、頼朝が死去した年に失脚し翌年滅ぼされた。

義経に対する評価が「判官贔屓」として上がる一方で、対照的に梶原景時の評価は「讒言をしていい顔をする人物」と低く評価されることが多かった。しかし、戦乱の時代から平和な時代を形作っていく中で、法による支配を厳粛に進め、それをないがしろにする人物を讒言して将軍に裁断してもらう。そういった嫌われ役はこの時代には貴重であり、それを進んでかどうかに関係なく、やってのけた梶原景時はそういう意味で貴重な存在だったのであろうと思う。

ちなみに、梶原一族はその後も、生き残り地元の名家としてよく庶民の見本となった。梶原一族にはこれ以降家訓が出来たそうである。それは「人の悪口を決して言わない。」景時が信念を持って讒言をしたからこそ、梶原氏は成長したし、子孫は悪口を言わないと決めてその後も生き残っていった。単純かもしれないが、非常に考えさせることだと思う。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。