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【古代】空海(774年~835年)

弘法大師と呼ばれ、真言宗の開祖となったのは空海でした。彼は、当時三筆の一人とされ、筆の名人でもありました。彼の生涯は一体どのようなものであったのでしょうか?

讃岐国(香川県)の豪族の子として生まれた空海は、頭脳明晰で18歳で大学に入ります。当時大学は貴族の子弟の教育の場でした。空海は儒教と道教・仏教のいずれかを生涯の研究対象とするか思案したあげく、仏教が一番良いと考え、出家します。

804年、空海は留学僧として中国・唐に渡ります。仏教の研究をするためには本場中国で学ぶことが重要でした。

この時、空海の乗る船は嵐に遭い、全く別の港に漂着しました。海賊の嫌疑をかけられ、殺されそうになりますが、「筆と紙を持ってきてくれ!」というと漢文で、「我々は海賊ではない、遣唐使として日本から来た正式な使者である」と書くと、そのあまりに整った字に感服し、これほどまでに立派な文字を書けるなら、高貴な方に違いないと、丁重にもてなされました

日本に戻った空海は、留学の報告をするため、嵯峨天皇と面会することになりました。面会に先立ち、空海は周りの者に、「日本に書の名人はいない」と公言してはばかりませんでした。これには嵯峨天皇も、内心穏やかではありませんでした。嵯峨天皇も三筆の一人とされ、書の名人と自認していたからでした。

そして、面会の日。空海は嵯峨天皇に会うと、即座に一本の筆を差し出しました。「唐では、書の名人は必ず上等な筆を持っています。しかしながら、日本には上等な筆はまだありません。ゆえに先般、日本に書の名人はいないと申しました。」

空海は続けます。「しかし、嵯峨天皇は紛れもなく書の名人。そんな嵯峨天皇には、この唐の上等な筆が必要です。これを差し上げます。」

嵯峨天皇は、その話を聞き、そして上等な筆をもらい、満たされるような気持ちになりました。空海は、一度相手を落として、一気に持ち上げたのです。これによって、嵯峨天皇は空海に教王護国寺という寺を進上します。

空海は筆一本で寺一棟を得たのです。

高野山に金剛峯寺を開いた空海は、密教を取り入れ、仏教の中心的存在となります。多くの僧が密教を学びに、空海の門を叩くようになります。

先輩の最澄もその一人でした。天台宗の開祖最澄も、密教を学ぶため、空海に尋ねました。しかし、密教は直伝でなければならず、手紙で伝えられる内容ではないので、直接高野山に来て欲しいと先輩最澄に伝えますが、さすがの最澄も今更空海に教えを請うわけに行かず、弟子の泰範を派遣します。

泰範は最澄の愛弟子でした。片時も側から離したくないくらいの存在でしたが、密教を学ばせるため高野山に送ったのです。ですが、約束の期間を過ぎても、泰範は帰ってきません。

早く帰ってきてくれ!泰範!

と最澄が書いた手紙は現在「久隔帖」と呼ばれ、国宝です。最澄の魂の叫びでした。

泰範がここにいたいと言っているので、無理です!

と書いた手紙は現在「風信帖」と呼ばれ、空海が最澄に送った、先輩を気遣いながらも、諦めてくれと諭す手紙です。国宝です。

このように、今も昔も人の気持ちや感情は変わらないんだなと感じます。そして、こういった気持ちが歴史を作り出すのだと思います。

最近、空海を題材とした映画が放映されたようなので、紹介しておきます。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。