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【古代】坂上田村麻呂(758年~811年)アテルイとの友情!

 坂上田村麻呂は征夷大将軍となり、当時大和朝廷の支配に抵抗していた蝦夷の征討を請け負いました。田村麻呂の祖先は渡来系の氏族で、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という蘇我馬子の命により崇峻天皇を暗殺した人物もその祖先です。

 征夷大将軍は、東北が平定され、大和朝廷に反抗する蝦夷がいなくなってもその役職名は残りました。鎌倉、室町、江戸幕府の歴代将軍は必ず、征夷大将軍となる慣例が生まれます。これは「征夷」ではなく「大将軍」という役職を求めたからでした。

 大将軍は、戦地において天皇の意向を聞く時間的余裕がない場合、独自の判断で軍事行動を起こしてよいとされる称号なのでした。つまり、幕府とは幕の中で軍議を開いている状態をさし、歴代の将軍は戦争中であるという前提で、天皇の意向を無視して、政権を担当していたのです。征夷大将軍とはそういう意味で非常に重要な役職だったのです。

 さて、坂上田村麻呂は、最大のライバル東北の蝦夷の首長アテルイを見事捕らえます。壮絶な戦いを繰り広げた田村麻呂とアテルイの間にはお互いの武勇を認め合い、讃え合う関係が出来ていました。そして、田村麻呂はアテルイの人望を認め、東北経営にアテルイを協力させるよう、朝廷にアテルイの助命嘆願を強く申し出ました。

 しかし、朝廷の人々は、アテルイを恐れ、田村麻呂の願いもむなしく、河内国で処刑されてしましました。悲しみに暮れた田村麻呂でしたが、現在坂上田村麻呂を本願とする京都の清水寺にひっそりと慰霊碑が建っています。清水寺に立ち寄った際には、是非アテルイにも思いを偲ばせてみてはいかがでしょうか。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。