流れがわかる日本史⑪

こんにちは。本日は源平合戦です。平家が高位高官を独占することに、貴族層の不満は膨れ上がっていきます。また、度重なる戦乱や飢饉により、庶民の生活は苦しくなり、重い税負担を強いられ、怨嗟の声が聞こえてきます。そして、1179年鹿ヶ谷の陰謀の余波から、後白河院が幽閉されると、平家の専横に我慢ができないという人々が立ち上がり始めます。

1180年、後白河の皇子、以仁王が全国の源氏に、平家打倒の号令を発しました。これを受け取ったのが、伊豆の頼朝、木曽の義仲でした。

頼朝は、挙兵すると石橋山で平家方である大庭軍と戦いますが、何と敗戦してしまいます。この時、頼朝は洞穴の中で隠れて難を逃れようとしますが、平家方の梶原景時が頼朝を発見してしまいます。この時、頼朝にとっては最大のピンチが訪れますが、梶原は頼朝を逃したのです。梶原景時はこう考えました。

今、頼朝を捕らえようとしたら戦闘になる。すると我が手勢が手負いとなる。それよりも、今は頼朝を逃して恩を売っておいた方がいい。そうして、梶原は逃しました。おかげで、源氏が優勢になると、梶原景時は頼朝に参陣し、家来にしてもらい、しかも側近中の側近となります。

さて、難を逃れた頼朝は、海を渡り房総半島に辿り着きます。そこから陸路、鎌倉を目指します。その過程で、関東各地の豪族がようやく頼朝の挙兵を聞き、参陣してくるのです。そうして鎌倉に入る頃には大軍となっていました。そうして、第二戦である富士川の戦いに臨み、これに勝利します。これ以降、頼朝は鎌倉に留まり、幕府の体制を構築していきます。

さて、合戦においては頼朝の弟である義経と範頼が軍を率います。そして一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いにて平家を滅ぼします。最後、清盛の孫で、幼帝安徳天皇は、母である建礼門院・平徳子に「海の下にも都がございます」と導かれ入水し、没しました。清盛は、1181年に熱病により没しています。それも平家にとっても逆風でした。清盛は最期に、息子たちに「私の葬式は無用、頼朝の首を我が墓前に備えよ」と言って死んでいきました。それくらい清盛は頼朝の勢いを恐れていたのでした。そもそも、頼朝は平治の乱で、頼朝の父が死に、頼朝も処刑になるはずでした。しかし、清盛の継母である池禅尼が嘆願したため、伊豆へ流罪となっていたのでした。

平家の滅亡に関しては、頼朝の弟義経の天才的な戦術・作戦遂行能力により勝利しました。しかし、この義経は、軍略の才はありながら、政治能力は低く、後白河に利用され、頼朝と義経の間で不和を生じます。結果、頼朝は義経追討を決意し、捕獲するため、全国に守護・地頭が設置されます。

奥州に逃げ込んだ義経でしたが、頼朝の威を恐れた奥州藤原氏の藤原泰衡は、義経を害してしまいました。その後、頼朝は結局軍勢を差し向け、奥州藤原氏を滅亡させ、日本に覇権をとなえた勢力はことごとく、滅びるか、頼朝の傘下へと入っていきました。

こうして、頼朝は征夷大将軍となることで、鎌倉に幕府を開設します。関東の地方政権ですが、武士たちの願いであった朝廷から、ある程度独立した政権の誕生です。鎌倉時代は、この地方の独立政権が、徐々に勢力を拡大させ、朝廷を凌駕し、全国の統一政権となる過程といえます。

次回から鎌倉時代に入っていきたいと思います。本日もお読みいただきありがとう御座いました。


歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。