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【古代】蘇我入鹿(586年~645年)

古代国家は、畿内を中心に大和政権が誕生し、周辺豪族達の連合政権から端を発し、各地の勢力を併呑し、広域の連合政権となっていった。朝鮮半島には高句麗・百済・新羅という3つの統一国家が誕生しており、互いに相克していた。

391年には大和政権と高句麗が朝鮮半島で交戦し、大和政権が敗れたという石碑が当時の高句麗の首都丸都に残されている。大和政権は国内に乏しい鉄資源の獲得と大陸の進んだ技術を摂取するため、朝鮮半島に進出していた。

しかし、連合政権では組織的な行動をとる相手を前に無力だった。そのため大和政権は、氏姓制度を導入し、豪族を組織化し、職掌ごとに分割したり、盟主を大王として統率者とした。国内で有数の鉄資源が獲得できる場所は出雲であった。当時大和政権と並び立つ最大勢力が出雲政権であった。大和政権は、この出雲政権を長い時間をかけて征討した。

そして、5世紀頃には関東から九州に至る広域政権となっていったのである。そして、大和政権の中で、めきめきと頭角を表していったのが蘇我氏であった。

蘇我稲目の時代、大王の信頼を勝ちとり、渡来人との結びつきを深め、進んだ技術を手にした。そして、財政を掌握し、仏教の受容をめぐり物部氏と対立した。この対立は子の馬子の時代に引きつがれる。結果、豪族たちの支持をとりつけ、物部氏を討伐し、推古天皇のもとで、厩戸皇子(聖徳太子)と三位一体の改革を断行していく。

この時代の改革の内容は、豪族達の代表者が合議をして国政を進めていく、氏族制の国家から、国家試験をパスした官僚がその能力に応じて、しかるべき職掌を担う官僚制国家への移行であった。蘇我馬子は多くの豪族達から絶大な信頼を勝ち得ていた。

しかし、蘇我氏総本家はその孫の代、入鹿の時代に滅んでしまう。

入鹿は、蘇我蝦夷の子として生まれ、学問僧旻に師事し、旻からも認められるほどの秀才であった。しかし、当時朝鮮半島では高句麗が唐からの征討を受けたり、百済や新羅でも内部で動乱があり、強い国家を目指さなければいけないという危機感が強くあった。

秀才なるがゆえ、入鹿は自分以外を認められず孤独と闘った。大臣という最高権力者となると、舒明天皇と妹の子である、古人大兄皇子を皇位継承者とするため、厩戸皇子(聖徳太子)の子である山背大兄皇子を殺害した。

このことが、王族や氏族の危機感を強める結果となった。舒明天皇あとを継いでいた妻の皇極天皇の時代、皇極天皇の子である中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏の別家で入鹿の甥にあたる石川麻呂を仲間に引き入れた。

そして、645年、飛鳥板蓋宮で三韓の調(朝鮮諸国からの貢物を献上する)儀式の際、中大兄皇子と中臣鎌足が急襲し、入鹿を殺害した。その後、中大兄皇子は大化の改新と呼ばれる政治改革を進めていく。その内容は、天皇中心の中央集権国家体制を構築し、天皇のもとで、令と呼ばれる法律を制定し、法に基づく支配と、それを担う官僚中心の国家体制であった。

つまり、入鹿の祖父、馬子が目指した国家体制であったのだ。入鹿は、東アジアに遅れをとっている現状を痛感し、いかに国力を高めるかを思考したとき、独断専行型となってしまい、多くの王族氏族の反発を受ける結果となってしまった。しかし、蘇我氏本家は滅んだが、その別家はその姓を変えて、脈々と受けつがれた。その代表が石川麻呂の石川氏である。

いずれにしても、古代国家建設にあたり、蘇我氏が果たした役割は大きく、それは国家財政の確立、地方行政の区分けや渡来人の技術の導入、仏教の受容など幅広い。そんな蘇我氏を手放しで悪役とするには抵抗がある。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。