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わたしがわたしに気づくには

前回、ちょっとながながと『意識と自己』を読んでの要点と感想を書いてみたのだけど、意識がどこから生じるかっていう部分の仮説についてはスルーしてしまったので、その部分だけもう一回まとめてみました。

進化の中で生まれた意識:チェシャ猫の笑い


意識はどこに宿るのか。

大昔からいろんな賢人たちが頭を悩ましてきた問題だけど、脳神経学者のアントニオ・ダマシオ教授が『意識と自己』(講談社、Kindle版、2018年、田中三彦訳)で紹介している理論によると、どうやら意識は「情報の間」に宿る、といえそうだ。

…「情報のま」というお部屋ではなくて「情報のあいだ」である。

ダマシオ教授は、意識は一枚岩ではなく重層構造であり、脳と身体のあちこちが互いに信号をやりとりする中であらわれてくる、と言っている。

下から上へ並べると、

原自己(Proto Self)
中核意識(Core Consciousness)
拡張意識(Extended Consciousness)

という構造。

いちばん最初の<原自己>は進化上、古い脳の部分の機能で、<拡張意識>は進化の歴史のなかでもっとも新しい大脳皮質による機能。

<原自己>はいわゆる無意識の世界、<拡張意識>は言語と複雑な思考の世界。そうしてその中間にある、意識が生まれる場所が<中核意識>。

脳の中で新しい領域が損傷しても意識そのものは失われず、脳の機能の一部が失われるだけだが、古い領域が損傷すると意識そのものが失われることから、意識のプロセスは進化上古い領域に依存しているのがわかるという。

ただし、それぞれのレベルでの意識にとって不可欠な脳の部位というのはあるけれど、「ここに意識が宿っている」という特定の部位があるわけではない。きまったお部屋が一つだけあるわけじゃないんですね。

そうではなくて、脳のあちこちと身体のあちこちでやりとりされる信号のやりとりのなかに、意識が「動的に」生まれる。

すごくざっくりとまとめてしまうと、意識は情報のやりとりのなかから生まれる情報だ、といっていいのだと思う。

そして、これがまた大切なところなのだけど、その意識は情動として生まれる、とダマシオ教授はいう。

<原自己>というのは、ひとつの生命体が内面にもつ生命維持状態のニューラルパターンで、つまり「生きている状態を保ち、それを感じている状態」。でもここにはまだ、それを感じている<わたし>は生まれていない。

「情」が発生しているが、それを感じる主がいない。

まるで『不思議の国のアリス』にでてくるチェシャ猫の「猫のないニヤニヤ笑い」みたいな話だ。

無茶な発想のようだが、でも脳が進化してきた過程に想像力をはたらかせれば、なるほどごく自然な話なのだ。

なにごとにも順序というものがある。

最初の生命であったごく単純な細胞から、何十兆個も細胞のある類人猿やクジラや人間がでてくる間のどこかに、まずはシンプルな形での意識が発生したはず。

(ちなみに、カタツムリにはニューロンが1万個、アリには25万個、ゴールデンハムスターには9,000万個、ヒトは860億個、象は2,570億個あるそうです。By ウィキ先生

ダマシオ教授の理論の特徴のひとつは、こうした生物進化の視点に立っていること。

意識が命を支える装置として非常に役に立っているということをみても、進化の中で意識が育ってきたに違いない、というのだ。

「特定の有機体の利益のためにイメージの効率的操作を最大にするような装置があれば、それは、そうした装置をもつ有機体に莫大なメリットをもたらしたはずで、進化において幅をきかせたに違いない。意識とはまさにそのような装置である」
『意識と自己』Kindle版 位置434

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<わたし>は<対象>の説明から生まれる

では、そのぼんやりしたチェシャ猫のニヤニヤ笑いのような世界のなかから、どのように自分を認識する意識が生まれるのか?

ダマシオ教授は「有機体がある対象と相互作用するとき、有機体の内部で起こることについての『説明』の構築から」認識が、つまり意識が「感情として」生まれるのではないか、と考えている。(『意識と自己』Kindle版 位置2913)

ここでいう<対象>は、生命体(ダマシオ教授の言い方だと「有機体」)の内側に生まれるニューラルパターンであって、外から来る信号も、痛みなどの体の内側で生じた信号も、どちらも含まれるし、それが記憶である場合もある。

「原初的な物語…一つの対象が因果的に身体の状態を変えるという物語が、身体信号という普遍言語で語られるようになると、意識が浮上する。明白な自己が、ある種の感情として浮上する」(位置551)

たとえば、歩いているところに猛スピードで車が突っ込んでくる。そのとき、その情報を受けて脳と身体には瞬時にさまざまな反応が起こる。車が近づいているという情報を受け取り、それをプロセスするとほぼ同時に(同時に感じられる速度で)情動反応が生じる。

「あなたに向かってくる車は、あなたが望もうと望むまいと、恐れと呼ばれる情動を引き起こし、あなたの有機体の状態の中の多くのものを変化させる。とりわけ、腸、心臓、皮膚が即座に反応する。」(位置2532)

この反応は<原自己>に起こっている。この反応が<有機体>つまり身体と脳のシステム中に起きたということと、それを「経験する」というのは別のこと、とダマシオ教授は指摘する。

「意識はわれわれが認識するときに起きるのであり、われわれが認識できるのは、唯一、われわれが対象と有機体との関係をマッピングするときだ」(位置2579)


<対象>によって<有機体>の状態が変わる。ニューラルマップに変化が起きる。
たとえば、車が突っ込んできた、音を聞いた、ニオイを嗅いだ、何かにぶつかった、何かを思い出した、などの結果、<有機体>の状態が変わる。

車の比喩でいえば、車が突っ込んできて心臓が止まりそうになり、血管が収縮する。この心臓バクバクの状態が、新たな<イメージ>となる。
そうすると、この<対象>との出会いによって<有機体>の中のあちこちの状態が変わったことについて、その因果関係の説明が別の「二次のマップ」にあらわされ、これもニューラルパターンになる。

<対象>のイメージは何度も繰り返し強化され、この<対象>が<わたし>を変えた、という説明の情報が、つかの間の<わたし>という認識になる。

これは一回限りのやりとりではなく、常に外界にセンサーをはたらかせている感覚器官と脳と体の各部の間での目まぐるしい交換の中で絶えず起きている。

「あなたは感じとられた中核自己として、一時的ではあるが間断なく、認識の海面上に顔を出している。その中核自己は、脳の外から感覚装置へと入ってくるものにより、あるいは脳の記憶倉庫から感覚的、運動的、または自発的想起へ向かうものにより、繰り返し更新される」(位置2970)


もちろんこのレベルには言語はまだないので、この「説明」は<イメージ>あるいは感覚であり、身体的な表現としては情動になる。

<有機体>全体からの信号と「対象のマップ」からの信号を結びつけているこの二次のマップも、脳のいくつかの箇所、おそらく帯状回や視床などで個別に生成されて、楽器の「合奏」のような形で生まれるのではないか、というのがダマシオ教授の仮説だ。

この中核自己そのものはは「パルス」の形で生み出されるごく瞬間的なパターンであり、この上にさらに脳のあちこちで書き出された記憶がくっついてくると、それが継続して認識できる「自伝的自己」となる。この上にさらに推論や言語がごちゃごちゃとのっかって、わたしたちが普段感じている自分、つまり<拡張意識>ができあがる。

ここで肝心なのは、このプロセスがものすごーく複雑な重層的なしくみであって、しかも一方通行ではなく双方向のプロセスが無数にある中であらわれてくるものだ、ということ。

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意識に必要なデータと時間、スケール感

そして、ダマシオ教授の理論で大切なのは、意識が複雑な情報システムであること、重層的であること、一枚岩ではないこと、であって、「身体がないところに意識は生まれない」理由は、身体が取り込んで生成する(外界と体内の)情報の量と質が必要であるという意味だ。

つまり身体という「モノ」がつくるのと同じ条件ニューラルパターンがつくれるのであれば、理論的には細胞である必要はなく、炭素でできている必要はない、ということ。

身体は膨大な情報をプロセスし、同時に生成する「場」「システム」であるということである。ここを間違えると、ダマシオ教授が『意識と自己』の中で繰り返し指摘しているように、「骨相学」的な考え方におちいってしまう。

なので、仮に、身体の感覚器官から吸収する情報のすべて、身体から脳が受け取る情報のすべて、さらには脳から出た信号が身体に働きかけてかえってくる反応も含めて、生きている脳が受け取っている情報のすべてが完全にほかの方法で再現できるとしたら、そして生命またはそれと同様のドライブがあれば、箱の中でも、水槽のなかでも、なにもない空間でも(なにもない空間で膨大な情報をやりとりする方法を考えるのは、チェシャ猫の笑いを思い浮かべるのと同じくらい難しいけど)、意識はきっと生じるわけなのである。

ミソは、この情報の莫大さ、ちょっと容易には想像できないほどのスケールと複雑さだ。

ともかくも、私たちは、あらゆるレベルで、情報でできている。

そして、意識は時間のなかで生じるものである。

ニューロンの発火にかかるのは数ミリ秒。心の中の事象、イメージが発生するには数十〜数千ミリ秒かかるという。

「あなたが特定の対象に対する意識を「生み出す」までに、分子からみれば……永久とも思えるほど長い間、あなたの脳の装置の中でものごとが時を刻んでいたのだ。
意識のプロセスを引き起こす実在に関して、意識には時間がかかるという考え方を裏付けるものに、刺激が意識されるまでの時間に関するベンジャミン・リベットの先駆的実験がある。意識までにはたぶん500ミリ秒かかる。」(Kindle版『意識と自己』位置2221)


異物がわたしを作る

ちょっとポエムな言い方でダマシオ教授の理論を言い換えてみると、「わたし」が存在するためには、わたし以外の何かとの出会いによってわたしの中に変化が起きる必要がある、といえる。

あたたかいスープの中に浮いているような<原自己>に、ちいさな稲妻のように何かが起こる。ていうか、何かが常に起こっている。突進してくる車、コーヒーの香り、靴下の香り、痛み、かゆみ、悲しみ。それが自分に変化を起こして初めて、その対象と、その結果を体験している自分を初めて認識する。

あまり安易に一般化するのは考えものではあるけれど、「外」の「異物」との間に起きた現象が「わたし」の認識につながるというのは、意識の上層部にある言語レベルの思考でも起きていることだと思う。

思考というのは外の世界の情報と「わたし」が出会ってその結果「わたし」の状態が変わり、それに驚いた脳がその関係性を学び、新しい説明/物語を作り出していくということだ。

言語もきっとそうやって生まれてきたのに違いないと思う。言語は、きっと世界の現象の名づけからはじまったはず。

意識とか思考というソフトウェア面だけでなく、身体というハードウェア面でも、生命そのものが外部の情報を取り込んでいくことによって成り立っている。福岡伸一ハカセが『動的平衡』で説明してくれたように、食べるという行為は食物を分子レベルで分解して体内で利用可能な分子やエネルギーに変換し、身体に取り込むということだし。(『動的平衡』)

相手とそれに対する反応の中から「自分」というものがあらわれる。

少し「意訳」になるけれど、意識は情報の間に生じるというのはそういう意味だ。

まとめ

近年まれにみる衝撃を受けた本だったので、何度にもわたってながながと書いてしまった。

もう一度、ダマシオ理論のここがポイント!と思うところをまとめておきます。

● 有機体には重層的な意識構造がある。
● 意識は進化の中で、有機体の生存に有利に働いたので、うまいこと発展してきた。
● 安定状態にある有機体が自分の内部に起きた変化とその原因に「気づく」ときに意識が生まれる。
● 意識はどこか一か所にしまっておけるものではなく、動的なシステムの中からイメージとして生まれている。
● 意識は情動の一種として始まっている。
● 意識には時間が必要。

この面白さ少しでも伝われば嬉しいです!



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