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『日本橋金運散歩』1 金座

箱崎地区を歩いていたら面白い標識に出くわした。

『銀座』ではなくて、『金座』?

疑問に思い調べてみた。

金座とは?

「金座」とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の鋳造を独占的に請け負った貨幣鋳造組織のことで、金貨の鋳造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていました。

「金座」の初代の長となった後藤庄三郎光次ごとうしょうざぶろうみつつぐは、1596年(慶長元年)頃、徳川家康の命により、御用彫金師であった後藤徳乗とくじょうの代わりとして江戸に赴き、本町1丁目に屋敷を構え、金貨の鋳造に携わりました(以後、金貨の鋳造は光次を祖とする後藤庄三郎家が長となって行いました)。
〈『日本銀行の紹介』⑷お金の話あれこれより引用〉

「金座」とは、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていた金座人と呼ばれる町人によって構成された、いわば半官半民の事業団体のことです。

「金座」以外の貨幣鋳造機関としては、「銀座」、「銭座(ぜにざ)」、「大判座」<大判の金貨製造>がありました。「金座」は明治 2年(1869年)、造幣局に吸収され廃止されました。

         〈『教えて日銀』より引用〉

なるほど、『金座』はかつて現在の日銀本店の場所にあったことが判明した。

金座通りの謎

それにしても、なぜ 本石町から離れた場所に『金座通り』があるのでしょう?

こちらについても調べてみました。


・私がずっと疑問に感じていた、浜町に残る「金座通り」という名前の由来もお聞きして納得しました。金座のあった場所(現日本銀行)までずっとつながっているので、両国橋の袂から浜町を通って金座までの道を金座通りと呼んだのだそうです。「金座通り」の愛称が、金座の場所からかなり離れた浜町に残っているというのも興味深いことです(現在の金座通りは、日本橋浜町1丁目12番~日本橋浜町2丁目11番)。
 また、狭い地域ですが「浜町二丁目金座町会」も残っています。(該当地区:日本橋浜町二丁目10から13番、32から41番、60から62番)
     〈『中央区観光協会ブログ』より引用〉

本石町方面にはかなり遠いのですが、まっすぐ行けば辿り着きます。途中から、道路の名前は変わっています。両国橋から金座跡までの通り道の一部なので『金座通り』と名付けられた?
そして、開業当時の日本銀行本店が箱崎地区にあったので、この辺りの地名として残った?
金座は明治2年に造幣局に吸収され廃止になったが
愛称として存続した?


開業(明治15年<1882年>10月10日)当初の店舗は、現在の中央区日本橋箱崎町にありました。当時の永代橋(現在より 100メートルほど上流に位置)のたもとにあった旧北海道開拓使物産売捌所を使用していました。

明治29年(1896年)4月に本店を現在の場所へ移転した後は、当初の店舗は主に集会所として利用していましたが、大正12年(1923年)に関東大震災で焼失しました。焼け残った建物は、設計者コンドルの業績を偲ぶ記念堂(東京市が帝都復興記念に指定)として浜町(はまちょう)公園の一角で生き続けましたが、昭和20年(1945年)に戦災で焼失し、公園も戦後改装されました。

なお、日本銀行は昭和57年(1982年)11月、創業百周年を記念し、上記開業地に記念碑を設立しました。

        〈『教えて!にちぎん』より引用〉

日本銀行は、開業当初は箱崎地区にあったということ。

旧館の外観だそうです。↑
場所は、
中央区日本橋箱崎町1番地(現在の地番)
東京市日本橋区北新堀町21番地(当時の地番)

旧館跡地の記念碑↑

金座通りは中央区の区道です。
平成5年度についた愛称だそうです。
以下中央区ホームページより。

かつて地方にもあった金座

「金座」は、江戸のほかに、京都、佐渡、駿河にも開設されました。この頃の金貨鋳造は、鋳造所が設けられておらず、幕府から金貨鋳造の許可を得た「金吹き」と呼ばれる小判師が、後藤家の指図の下、自宅で原判金を鋳造していました。原判金は、後藤家の屋敷内に設けられた後藤役所で検定され、後藤家の極印を打たれて初めて貨幣としての価値が生まれました。その後、1695年(元禄8年)に慶長金が元禄金に改鋳される際、江戸の本郷霊雲寺近辺に吹所ふきしょ(鋳造所)が設置されました。この時、京都などでの鋳造は中断され、原判金の鋳造や検定・極印打ちの作業は本郷の鋳造所に集約されました。しかし、1698年(元禄11年)には本郷の吹所が廃止され、再び本町1丁目の後藤家の屋敷で鋳造作業が行われるようになり、幕末まで続きました。なお、「金座」は、当初「小判座」(佐渡は小判所)と呼ばれていましたが、「金座」と呼称されるようになり、京都、佐渡は江戸金座の出張所となりました(駿河は1616年頃廃止)。
〈『日本銀行の紹介』⑷お金の話あれこれより引用〉

京都、佐渡は江戸金座の出張所になり、駿河は1616年に廃止になった。

静岡には、現在も静岡市葵区に金座町という地名が現存しており、そこには日本銀行静岡支店がある。

日本橋にも駿河?

たまたま、日本橋スルガビルの前を通ったら、次のような展示があった。

両替商の街駿河町?

これについても調べてみました。
富士山が見えるから駿河町だそうです。

町名は富士山の眺望の効く景勝の地であることに因む。その景色は安藤広重の作品をはじめ多くの錦絵に描かれている。江戸期は西側の本両替町とともに「両替町」とも俗称された
      〈『江戸街巡り』より引用〉


町名:駿河町
読み方:するがちょう Surugachō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1932(昭和7)年
冠称:なし
現町名:中央区日本橋室町一・二丁目

日本橋は旧くからお金と縁のある処だと改めて思いました。

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