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アメリカを透かして見えるもの〜音楽の存在価値 その2

アメリカで音楽について感じたことの記憶。
アメリカのライブハウスやバーでは、人々が踊っています。踊らない人もいます。
皆それぞれバラバラに違うように音楽を聴き、感じ、楽しみ、結果大きな一つのまとまり、うねりになっています。そして盛り上がっていくのです。
こういう話は、日本とアメリカのオーディエンスの違い、みたいな論考で何十年も繰り返しどこかで誰かが言ってきましたし、僕も言ってきました。なので今更そんなに目新しい話ではありません。そこには歴然とした違いがありますが、その違いについてあれこれ考えることにはあまり意味を感じなくなりました。その話を簡単に一言で終わらせれば、日本の人の音楽の楽しみ方はそういう感じはしません。それは文化の違いなのか、社会の違いなのか。それは社会学に任せましょう。

オーディエンスの違いとか社会背景のことではなく、純粋に音楽そのもので考えれば、人が持っているリズムは根本的に違います。最近バックビートという言葉をよく耳にするようになりましたが、僕の実感としては英語そのものがバックビートの言語です。日本語というサウンドはバックビートという要素はないです。ロックンロールがバックビートなのは英語がそもそもバックビートだから。つまりロックンロールには言葉のリズムという要素は絶対欠かせないものなのです。だからロックンロールとヒップホップ、ラップは直系の親子みたいなものだというのが僕の考えです。ネイティブでバックビートを持っている日本人というのはとても少ない。僕のそばにはそんな珍しい人が一人いますが、それ以外にはあまり出会ったことがない。僕自身も自分がネイティブなバックビートが足りないことを実感しますし、まさにそこがトレーニングの肝だったりします。英語圏の彼らにとって自然なリズムであるロックンロールやヒップホップが、彼らの日常や生活に溶け込むのは当たり前なのかも知れません。

僕は一体何について考えているのだろう。
僕がアメリカでワクワクしたことの理由を考えているのです。
どうしてあんなに楽しかったのか。刺激的だったのか。
音楽をやることの喜びと興奮をあんなに感じることができたのはなぜなのか。
大事なことは「身体性」なのかも知れません。
今は世界中で身体性がどんどん失われている時代であると感じていますが、それでもなおアメリカでは身体性を感じました。周りの人が皆肉体を使って音楽を楽しんでいる空間にいると自然に自分もそうなります。不思議です。何かが体で共鳴するのかも知れません。これは自分一人ではできないことです。アメリカで音楽を演奏したり聴いたりするとその場の人たちと一緒のうねりの中にだんだん溶けていって自分の肉体を感じることができます。肉体が音楽を奏で、肉体で音楽を感じています。肉体と音楽が乖離してしまうとどうしてもつまらなくなってしまうのです。
アメリカで感じたことは、肉体と音楽が乖離していない日常の楽しさであり、それが当たり前であるのだという驚きであり、「身体性」を感じることの喜びです。肉体と音楽が一体であることこそが人々が音楽を大切にする根拠なのかも知れません。音楽を大事にしないことは肉体を大事にしないことである。そのくらいのことなのかも知れません。いくら脳幹に直接電気刺激を与えてもダメなのです。脳ではない肉体の部分から得る刺激というのは代替不可能なのだと思います。脳で知覚して形にされる音楽と、肉体のうねりによって生まれる音楽の違い。
僕にとって魅力的なのは圧倒的に後者なのです。
その魅力を大切にし、その魅力に素直な人がアメリカには圧倒的に大勢いました。そんな中で過ごすのは楽しいに決まっています。その楽しさは僕にたくさんのことを今も考えさせています。当時僕は「外国人」でした。音楽という国境を超えるツールでコミュニケーションをする外国人でした。その微妙なポジションが僕にたくさんの刺激を与えてくれたのです。「音楽の存在価値」なんてことを真剣に考えるようになったのも、その経験があったからです。

僕は音楽を大切にする社会が大好きなのです。





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