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施設で亡くなった人へ本を作る

私は介護施設(ショートステイ)で働いている介護職員です。
先日、1人のおじいちゃんが亡くなりました。
当施設では施設をした利用者の日常を写真・言葉にまとめたものを
フォトブックを使用し家族へ「生きた証」と題し本を作っています。
介護施設で起きた、日常・特別な日々や表情などを
職員が選び1つずつ言葉を添えていきます。
当人を真ん中に関わる職員、家族の思い出を大切に
施設職員が思いを込めて作る「生きた証」

今回はこのおじいちゃんについて書きます。

若い頃から酒とタバコをやって倒れるまで農業をやっていたと話すおじいちゃんは利き腕の動きがよくありません。左手にスプーンを掴み食べるのですが途中、食欲が勝って器ごとに食べる姿が印象的な人でした。

たまに「かあさ〜ん、かあさ〜ん」と奥さんを呼ぶ声が聞こえ
「なしたの〜?」と聞くと「かあちゃんにあいたい」と話す。
奥さんは小柄でじいちゃんの3歩後ろを歩く亭主関白が伺える印象的
「おじいちゃんも強面だし・・・THE亭主関白な構図だな」と思ったんですがちょいちょい一緒にいるところ見ると「バランスが良いな〜」と

基本は亭主関白(じいちゃん主導だけど)、ここという時は「かかあ天下」ばあちゃん主導になる。それに対してじいちゃんも若干驚きながら従う様を近くでみると色々と想像してしまう。

「いま、じいちゃん驚いたよね・・・?」
「家だとそんなことなかったのかな?」
「昔から最後は奥さんが出てきたのかな?」
「なんだかんだ言ってじいちゃん、ばあちゃんに従うな」
「奥さんと一緒にいる時がなんだかんだで1番良い顔してんだよな〜」

そんな2人のやりとりがもうない。じいちゃんは亡くなったのだ。
走馬灯に思い出す、思い出は「今だから」できること。
なぜ?なんでそう言うことをの?・・・

それは、人は「忘れる」・・・残酷なほどに
どんなに好きな人も一緒にいたことを
1〜100まで鮮明に思い出すことはできない。

「昨日何食べた?」
「1週間前は何を話した?」
「去年はどこに行ったの?」
日常的なことはもちろん

「まごの名前は?」
「息子の名前は?」
「奥さんとの結婚記念日は?」
特別なこと覚えておきたいことでも忘れてしまう時がある。

私はそんな場面に多く関わってきた。人は「2度死ぬ」と言われている。
1度目は肉体的に、2度目は人から忘れられた時に(忘却の死)
1度目は正直、どうしようもない。その人が生きた証でありそのものだ。
だけど2度目の死は「なんとかできる」と私は思う。

みんなの記憶にあるものを記録にすることで
フワッとしている状態をカタチあるものにすることで
その人を「忘れない」「思い出す」機会を作る。

このまま歳をとっていけば人は大切な記憶を忘れてしまうかもしれない。
孫とかひ孫とかが大型連休で帰ってきて手にとって「これなあに?」と聞く。おばあちゃん、息子・娘が「それはおじいちゃんだよ」と話す。
次の世代に語り継がれるじいちゃんは死なない。

仏壇の前にちいさな本を作って置こう。


仏壇に手を合わせて遺影をみるよりパラパラとめくれる「これなあに?」と
会話が生まれる本の方が「話すきっかけ」になる。

それは私たち人の最期に関わる介護職員だからできること
オムツを変える、食事と手伝うだけが介護じゃない。
いつもの生活を、ちょっとした特別に関わるのが「介護」なんだ。

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私自身、この経験を独占するつもりはありません。
今後もどんどん、共有していきます〜。



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