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光る君へ14星落ちてなお 感想

誰もにとって重い存在感のあった兼家がついに亡くなった今回。終わりを悟る一方で死の間際にもまだ遥か上を望む、そんな彼らしい死際が詩的に描かれていたように思う。「今夜、星が落ちる」と形容した安倍晴明の言葉も美しかったし、月を真っ赤に染める兼家の視界や、朝日に照らされる橋のたもとの死に姿も「ああ、綺麗だな」と思ってしまった。命の終わりは、誰にとってもよく分からない。それは星の起源や消滅のように。


「老いぼれが、とっとと死ね!」の衝撃と、喪に服さない道兼


道兼役、玉置玲央さんの演技が凄まじい。後継を告げようとする兼家を前に、期待を込めた眼差し、からの、吊り上がる眉と見開かれる瞳。兄が指名された後の「とっとと死ね!」は表情から伝わる気迫が凄かった。ひどい言葉だけれど、その後のしょんぼり肩を落とす後ろ姿が何とも痛々しく、ただ父に認められたかったという、道兼の心情が伝わってくる。
兼家の喪に服さない道兼、というシーンは大鏡に記述がある。
「道兼公は父兼家公の服喪には、御簾をすべて上げてしまって、読経も念仏もなさいません。仲間を集めて遊び、全くお嘆きになりませんでした。花山院をご退位させたのは私なのだから、関白も私にお譲りなさるべきなのに、というお恨みからです。非常識なことですよ。」
→原文「この殿、父おとどの御忌みには、…御簾どもあげ渡して、御念誦などもし給はず。さるべき人々呼び集めて、後撰・古今ひろげて、興言し遊びて、つゆ嘆かせ給はざりけり。そのゆゑは、花山院をば我こそすかしおろし奉りたれ、されば、関白をも譲らせ給ふべきなり、といふ御恨みなりけり。世づかぬ御事なりや。」(大鏡)
大鏡の作者からも非常識と評価されてしまっている道兼だが、父に認められたいけれどもうまくいかないという思いは、現代人の私たちにも理解できるから、なお切ない。

現実のいととロマンの為時、あるいはその逆

いとと為時、二人の関係はドラマの癒し。本人たちは真面目なのにどこかおかしく、やさしく、ほっこりする。いとちゃんはかわいくて、不器用な為時は甲斐性なくとも「まめなる」男前。
お暇を願い出るいとを優しくいさめる為時。いとは現実的なようで感情的だし、為時は案外現実的で、そこが素敵。
一方、兼家の死の知らせを受けると、ガッツポーズするいとと「激しいご生涯であったのお」と思いを馳せる為時。ここは現実のいとと感情の為時。
「嬉しいか悲しいか分からなくても涙は出るのよ」とまひろ。
良くも悪くも存在の大きかった人物の死。その存在が、この世から消えてしまうということ。するとその人物に苦しめられた過去があろうと、強い喪失感を感じるのが人間。とてもよく分かる。それは、嬉しい、悲しいなどの言葉に当てはまる前に、胸から溢れて涙になる。
そしてそのまひろの台詞は、紛れもなく彼女の「嬉しくて悲しい」失われた恋の記憶から出ていることがわかるので、しんみりしてしまう。

道綱の母と三十一文字の力

兼家の枕元で、「ミチツナ、ミチツナ…」と呟く道綱の母。晩年の兼家と道綱の母には、史実では交流は認められないようだけれど、この描き方は面白い。彼女についても書かれている『毒親の日本史』という本が面白そうなので、今度読んでみたい。
「嘆きつつ」の歌を呟いて微笑む二人。時代をときめく公達と歌の名手の女性、人々の興味を駆り立てる苦い恋。それを、二人が楽しんでもいたであろうことは蜻蛉日記からも伺える(まひろが解釈したとおり)。「輝かしき日々であった」とかつてを懐かしむ二人。二人の記憶と感情を呼び覚まさせるのは、たった三十一文字の和歌。文芸の力というものを感じるワンシーン。
ところで、「嘆きつつ ひとり寝る夜の あくるまは いかに久しき ものとかは知る」の歌と共に閉め出された兼家の返歌が「げにやげに 冬の夜ならぬ まきの戸も おそくあくるは 苦しかりけり」(なるほどそれはつらいでしょうね。でも戸が開くのを待つのも辛いんですよ)なのは、太宰の「待つ身が辛いかね。 待たせる身が辛いかね。」っぽくてなんだかクスっとしてしまう。とはいえ、男の通いを待つ女の辛さが実際に身を切るような痛みであることも分かるから、まひろは道長の求婚に「耐えられない…」と溢したのだろうけど。

あさきゆめみし明子さま

瀧内公美さん演じる源明子さま、画風が完全に「あさきゆめみし」ではないですか!呪詛シーンのとどめ、「バアァーン!」がより漫画っぽく大迫力。でも、子を宿していた明子…。身体に負担をかけては…。
そんな明子を、喪中(当時死は穢れ)であるにも関わらず見舞う道長。しかもドラマ上では父を殺した本人である妻への見舞い。でも道長はただ優しい。子を亡くした母を、真っ当に気遣う。こういうときの道長は、おおらかで優しくて、実姉詮子さまに好かれていた「三郎」の素が垣間見える。
しかし彼が穢れを意識しなくなったのは、命を落とした直秀を自ら埋葬した経験から…。それを知る視聴者は道長の変わらぬ純粋を感じて切なくなるけれど、愛を知らず人を恨んで生きてきた明子には、ハッとするほど温かく感じるだろう。
やはりこのドラマの道長は、光源氏のごとく誰もを虜にしてしまう魅力の持ち主。「雀の子を逃がしてしまったの」と紫の上のような運命の出会いを果たしたまひろも、正妻としての立場がある倫子さまも、雅男を想う心中は複雑である。

それぞれの「道」

まひろの家を訪ねてくるききょう。紫式部と清少納言がこんなに交流しているとは思えないけれど、二人の違いを描いていくのは面白い。ききょうの「志のために夫を捨てます!」はBGMも可笑しい。知己に富む清少納言と、体育会系だった橘則光は文学面で合わずに離婚している。が、離婚後も仲は悪くなさそうなあたりが微笑ましい二人、思い出されるのはワカメ事件※だ。
※暇をとっている清少納言を、休み中にも関わらず呼び出したい斉信は、夫の則光に居場所を聞く。則光はとっさにワカメを口一杯頬張ってごまかし、それを清少納言に得意気に(?)語った。後日同じシチュエーションで斉信に問い詰められた則光は、「君の居場所教えてもいい!?」と清少納言に手紙で問う。清少納言からの返事として送られてきたのはワカメ。「前と同じくこれでも食べてごまかして」の意なのだけど、勘の悪い則光の反応は「なんでワカメ!?」だったという…。
さて、そんな清少納言となるききょうが「道をみつけたい」と宣言する中、子どもに文字を教えるまひろ。庶民のそれも女の子に文字を教えるなんて地雷なのでは…と思っていたらやっぱり来なくなるたねちゃん。庶民にも字を読めるようになってほしいというまひろの志は、「お偉方の慰みもん」と一蹴されてしまう。『紫式部日記』にある「一といふ文字をだに書きわたしはべらず」(一という漢字さえ書けないふりをしている)のような価値観はこういう傷から来ているのかも…と思わされたりして…
一方、検非違使庁の改善案を提案するも受け入れられない道長。「政は家」という父の遺志を継ぐ道隆に対し、「身分の高いものだけが人ではない」と訴える。
時を経て、男女としては別れても、直秀の死を胸に繋がる二人がエモい。貴族のドロドロの中立ちすくむ庶民思いの道長、貴族としては儚い立場でも庶民とも分かり合えないまひろ。志と環境のズレ、その孤独が共通する二人。「俺は何一つ成していない」はまひろに対しての言葉で、結婚しても道長の想いは一途だ。(誰もに誠実なのがまた光源氏な道長。)
それぞれの「道」の先がどう交わるのか、これからが楽しみ。

次回はついに道長と伊周の「弓争い」!




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