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【ボランティア編】こどもの頃の反応って、結局おとなになっても根本は変わらないのでは?その1

なぜ、ここにきて、インナーチャイルドとか、子供とか。

そういうキーワードが出てくるのか。

それについて説明しなければならないだろう。

仕事のコミュニケーションについて書いている記事だからね。


わたしは、今回の自分のビジネス上のコミュニケーションの問題について、

一定の結論を見出していた。

どういうことか。

人間の感情の機微について考えなければ、コミュニケーションは図れないということだ。

わたしに関してだが、

常々、自分の感情を無視してきているので、

他人がビジネス上で感情に基づく思考を前面に押し出してきたときに、

どうしても、

「いやいや、何甘えたことを言っているの?仕事でしょ?」

と、口には出さないが、考えの根底に持つことになる。

そうすると、口には出していなくとも、

相手は、気づくのだ。わたしの考えに。

となると、もう、ここで相手との心の距離は、

適正なものからかけ離れたものになってしまう。

この回でも記載したが、人という生き物は論理だけでは納得できないようになっているらしい。

まぁ、中には論理だけで納得できると考える人もいらっしゃるだろうが、

それは、勘違いだとわたしは思う。

食べ物を食べたら美味しいと感じる。

評価されたら嬉しいと感じる。

仕事をしていて楽しいと感じる。

お金をたくさんもらって余裕ができる。

すべて、感情のなせる業だ。

そして、その感情がある限り、多かれ少なかれ、物事の判断材料に組み込まれることになる。


もちろん律することは出来る。

だが、無にすることは不可能だし、そんなことをすれば、

少なくとも今の社会では到底受け入れられないだろう。


もし、論理だけで社会を構築できるのであれば、

今の混とんとした世界の政治情勢や、

ジャンヌ・ダルクのような人が辿る悲劇は存在しないだろう。


話を戻そう。

何が言いたいかというと、

大人の社会は感情も構成要素の一つである。

そしてわたしは自分の感情を認知できていなかった。

では感情とはどこで認知できるのか。


ここで重要になってくるのが子供たちである。

子供たちのほとんどは、感情がストレートに表出している。

もちろん、彼らも嘘や虚勢という名のカバーをかける。

だが、大人たちのそれとは比べ物にならないぐらい、

薄いカバーだ。

なぜならば、自分の感情、本質について理解してほしい欲求が強いからだ。


一方、大人たちは感情や本質については、

自分の決めた相手にのみ理解されていれば満足できるケースが多い。

それは家族や恋人、友人たちかもしれない。

一定の人間関係の中で理解されて、ある程度の納得をしているのだ。


そして、自身の感情について認知していない、

わたしの立てた仮説がこうだった。

「子供たちが表出する感情を理解できれば、自分の感情の認知につながり、ゆくゆくは、大人たちの感情の機微も理解できるようになるのではないか」

というわけで、検証のためボランティアを通じて子供たちと向き合うことになる。


・・・補足ではあるが、

前回の記事で自分のインナーチャイルドと対面したときに、

わたしが何故、恐怖したのかというと。

カバーのかかっていない、子供のときの感情が、

憎しみしかなかったという点にある。

自分の感情の最初の認知が、

憎しみとか。

ぞっとするでしょ?

どうするの、これから掘り下げても憎しみしか出てこなかったら。

もう、どこかの山奥で隠居するしかないよ、ほんと。

・・・まぁ、その件については杞憂だったことが、

子供たちと接する中で判明していくのだけれど。

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