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随想|言語化について

何事も言語化は大切だと思っていたけど
「言語化が必ずしも良い作用を持つとは限らない」
というのが最近の個人的見解

ここでいう言語化は
話したり書いたりして言葉を外に出すことではなくて
脳内で感情を言葉に変換して感覚の解像度を高めること

あくまでも、自分自身の内側で完結する言語化の話

自他にとって正の感情であれば
いくらでも言語化するべきだと思うし
惜しみなく外に出すべきだとも思うけど

負の感情に関しては
言語化して不快感の根源を深く理解すればするほど
自分が辛くなるし、その不快感の型から
抜け出せなくなる傾向にあると感じたわけです


分かりやすいのがHSP

「HSPが嫌なこと◯選」のような記事を見て
自分だけじゃないと救われた気持ちになるのも束の間、
「自分はHSPだから」という型に自ら嵌りにいって
余計しんどくなるのはあるある

MBTIに関してもそう

私で言えばINTJの欠点として挙げられることが多い
「雑談が苦手」という感覚は昔からあったけど
その理由として言葉が与えられた瞬間、諦めに変わる

自分に対する負の感情ならまだしも
他人に対する負の感情の言語化が
一番リスクあると思ってて

例えば、相手を苦手だと感じたときに
なぜ苦手だと感じるのかを言語化してしまうと
相手の気に入らない部分の粗探しになりかねないし

嫌な部分でしか
その相手をラベリングできなくなってしまいがち


その時に言葉を適当に見つけてきてしまうのが
本当に危険だと思ってて

持っている負の感情にぴったり当てはまる言葉が
見つかるなら問題ないけど
そんな簡単には見つからないことがほとんどなわけだ

当てはまる言葉がないときに
それに近い既存の言葉を使って形容するのだとしたら
持っている負の感情は捻じ曲がった方向に向くのでは?
と思ったのですよ


そもそも負の感情は
正の感情に比べて目立ちやすい


100人から向けられた肯定的な言葉より、
1人から向けられた否定的な言葉の方が
心に深く残ってしまうのと同様、

自分の中だけの感情でも
100の好きより、1の嫌いに敏感になってしまうのは
人間だから仕方ないこと

ただでさえ、そうなのに
1の嫌いを言語化して更に見えやすくしてしまうと
100の好きを霞ませてしまう

その時に、意味が似ている既存の言葉を
無理やり使うなら尚更だと思うんです

大抵の場合、既存の言葉で負の感情を表現すると
その言葉が短くて簡単な言葉であればあるほど
本当の感情より肥大しがち

「嫌い」「ウザい」「キモい」等がその類

短く簡単な言葉は印象が強いからこそ
既存の言葉として広まってしまっているけど
そういう言葉は感情を「正・負」「快・不快」とかで
ざっくりと分けた時の片方の総称に過ぎなくて
それぞれの感情を表現する時に
適している言葉ではないと思うんですね

感情は単一ではなくて
色んな要素が複雑に絡まって存在するものだから


それなら、上手く言語化できる確信のないような
負の感情は敢えて言語化せず
「なんかモヤモヤするな〜」くらいに留めていた方が
100の好きを霞ませなくて済むというのが最近の考え


ただ、自分の「快・不快」の引き金を理解することは
生活する上で重要だと思ってて

それを理解するために必要なのが言語化だから
負の感情を言語化しない選択肢ばかりを取るのも
間違いなく自分自身に悪影響ではある


心の安定を保ちつつ、自分自身のことを知る

その最適なバランスを見つけるのが不可欠だと。

うーん、難しいね



持っている感情に当てはまる言葉が見つからないことは
正の感情を言語化するときにも多くあって

例えば、何かに感動したとき
「感動した」と言ってしまえば簡単だけど
それだと大切なものを見落としてしまう気がする

一言に感動と言っても
純粋に素敵だと思っているのが100%の場合もあるし
その中で憧憬が占める割合が大きい場合もあるし
嫉妬や悔しさが隠れている場合もあるからね


冒頭にも書いた通り、
正の感情はいくらでも外に出すべきだと思ってるし
相手に対する正の感情なら尚更、簡単な言葉でいいから感情が新鮮なうちに直接伝えるべきだと思ってるけど

自分の中で言語化するときは、
もっと丁寧に自分の感情を見つめた方が良いかもなと
思ったわけであります


うん


それだけの話


こういうこと考えるの、結構好きです


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