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2月21日「漱石の日」にちなんだ超短編小説

2月21日 漱石の日
文学博士の称号が贈られるとの知らせに対し、夏目漱石は「自分には肩書は必要ない」とそれを辞退した。

ぼくだったら、喜んで飛びつくけどね。羨ましい限りだなあ。
立派な大作家という称号がもうある夏目先生には、新しい称号なんて必要ないのかも。
「これが自分」という認識を持っていれば、肩書で自分のアイデンティティを確立させる必要はなくなるし。

ぼくらはずっと、「これが自分」というものが欲しくてたまらない。

赤ちゃんの時は母親と一心同体で、そんなもの必要なかった。しかし幼少期を過ぎ母親から離れて、母親と自分は違う人間なのだと知っていく中、この自分というもののあやふやさ、頼りなさに、ぼうぜんとする。自分って何だろう。どういうのが自分らしさだろう。こういう時どうするのが自分。こういう時なにを感じるのが自分。テンプレートが欲しくなる。

「これが自分」というのは人生のシナリオのようなものだ。それがないと、何のシナリオもなく舞台に立たされた役者のように、何をしたらいいのか分からなくておろおろしてしまう。心もとない。自己がないのに自己肯定感なんて持てないし、自分というものがなければそれに対する自信だって持てない。

いや考えようによっては、どんなことだって「これが自分」になる。

わたしは自己肯定感が低いです。それがわたしです。
わたしは自分に自信がありません。それがわたしです。
わたしは自分というものがありません。それがわたしです。

こんな地域に住んでこんな家に住んでいる自分、こんな親がいる自分、こんな友達がいる自分。この教科が得意な自分。この教科が苦手な自分。これが好きであれが嫌いな自分。こういうときこうするのが自分。体質も病気もこれが自分。信仰すらもこれが自分。

ぼくにとって最近できた最強な「これが自分」は、なっちゃんの彼氏という自分。あやふやな自分しかない、この社会での自分の立ち位置が分からないようなぼくに、スポットライトを当ててくれる、好きだといってくれる女の子。
ぼくは最強の「これが自分」のカードを手に入れた。向かうところ敵なしの気分。

ぼくは「彼女がいる中学生」になれた。好きといってくれる人がいるおかげで「自己肯定感が高い自分」になれた。なっちゃんとラインでたくさんやり取りするから「ラインが得意な自分」になれた。問題をすらすら解くとなっちゃんがすごいと言ってくれるから、勉強を頑張って「数学が得意な自分」になれた。

ぼくはいろいろな「これが自分」を見つけて、それをなっちゃんが受け入れてくれるから、「これが自分」という認識が強くなって、ますますそれを強化していくような行動をしていく。

もっといろいろな自分を知りたいと思う。でもなっちゃんに振られた自分だけは知りたくない。この素敵な女の子の彼氏というアイデンティティは失いたくない。

だからぼくは今日も、なっちゃんを大切にする。ぼくはうすうす気づいている。なっちゃんは、ぼくのことを確かに好きだろうけれど、「彼氏がいる自分」の方がもっと好きだろうということを。なっちゃんだって「彼氏がいる中学生」になったのだから。

たとえ自分のアイデンティティのための恋人だったとしても、恋愛感情がまったくないわけではないのだから。
アイデンティティの確立なんてどうでもよくなるくらい、お互いに夢中になってみたい。


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