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最後に記憶に残るのは、”普通の日常”。「チョコレートドーナツ(any day now)」

みなさん、こんにちわ。最近、本格的に夏が迫ってきていますが、体調崩されていないしょうか。私は早くも、夏バテで食欲が消え始めております。

食欲は減少しておりますが、本日は「チョコレートドーナツ」という映画について紹介しようと思います。

前段階として説明させていただくのですが、私は自称映画ファンですが詳しく役者さんや監督の名前を覚えるということは苦手です。なのでこのnoteでは、作品を観て私が感じたことをつらつらと書き記していきます。

初めてお伝えしておきます。

この映画鑑賞後に、感情が晴れるor幸せな気持ちにはなりません

ものすごく端的にこの映画の内容を伝えるならば、

自分がゲイだということを明るみにしていない弁護士・明るい性格のショーダンサーのカップルが、母親からネグレクトを受けている少年のマルコと生活をするお話しです。3人は初めは”幸せな日常”を過ごします。ですが、その幸せな生活は長くは続かないのです。🍩


この”幸せな日常”を生きている最中、人は「幸せだ」と感じます。ですが、本当はそれ以上に幸せなのです。それを実感しました。

朝起きて、大切な人と食事をとり、仕事をしてお風呂に入って寝る。この”幸せ”は日常だからこそ、どれほど自分が”幸せか”ということを、リアルタイムで立ち止まって体感することが難しいのです。

なぜ、人間は他人の幸せや不幸にはすぐ気が付くのに自分自身の幸せを気づき、謳歌することができないのでしょうか。この問いに関しては、私もまだ見つけることができていません。😅

劇中で、ネグレクトをしていた母親が二人(カップル)から息子マルコを取り返すために裁判をするシーンがあります。そこで当時(舞台となった1979年)、社会的にゲイカップルは認められておらず、低い地位にいました。二人と生活することがネグレクトをしていた母親よりも、マルコの成長に悪影響を与えると言われていまします。

その時にゲイカップルのショーダンサーをしている、ルディが裁判官と母親側に向かって言った

「これは一人の人生だ。あんたらが気にも留めない人生だ。」

というセリフと表情を今でも鮮明に覚えています。


二人と生活をしている時のマルコは確かに幸せで、我慢をせずしたいことをする”少年”そのものでした。私も三人が幸せそうに生活しているシーンの時は、自然と笑顔になっていました。

最終的にマルコは実母の元に戻ることが、裁判所に命じられてしまいます。

この判断ついては行政側のこともあるので、正しいor謝りとは一概に決めつけることはできません。ですが、私が映画を観てから思ったことは、二人が認めて欲しかったことは「短い期間だったが、三人は確実に”家族”として幸せに暮らしていた」ということではないか。

少なくとも、私と友人の目には三人は家族として映っていました。


結局、人が最後に思い出すのは”日常”で。人が回顧する時には”食べ物”の記憶も付随するんですよね。😉

私も旅行や学生時代の記憶には必ず、食べ物の記憶とその時、一緒に食べていた子たちの表情や会話内容を思い出します。

私はこの作品を高校生の頃、友人を連れて鑑賞しました。映画館を出たらチョコレートドーナツを食べようと約束をしていたのですが、鑑賞後は食欲なんて消えていました。🍩


気になった方はぜひ、下記のURLから映画の予告・概要をチェックしてみてください。(あ、ちなみにこの作品は実話ベースで制作されています。現実と映画の結末が異なっているので、ぜひ調べてみてください。)

https://bitters.co.jp/choco/introduction.html

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