社会人になりたての頃、ゆずの曲が聞けなくなってしまった話。
ぼくは、"平成爽やかフォークデュオ"の「ゆず」が大好きだ。
中学生の時、母から見せてもらったライブDVD「GO HOME」をきっかけに、2人の歌声、調和したハーモニー、耳に残るキャッチーなメロディの虜になった。
"ゆずっ子"になったぼくは、お年玉でYAMAHA FGのエントリーモデルを買い、狂ったように弾きまくった。バレーコードの洗礼もしっかりと受け、挫折しかけたが、愛情で乗り越えた。今でもギターは最高の趣味の1つで、当時のゆずの曲のキーとコード進行は、ほとんどが今でも頭に入っている。少し承認欲求が顔を出してしまったが、それくらいゆずが好きだと理解いただければ幸いだ。
ゆずは一貫して「希望」を歌っているように感じる。もちろん多くの例外はあるが、2人の曲からは「命を大事に、希望をもって生きてほしい」という2人のメッセージを感じずにいられない。そしてぼく自身、つらい出来事も、その希望のメッセージで乗り越えられたという強い実感を持っている。
しかし、社会人になりたての頃、ゆずの曲が聞けなくなってしまった時期があった。それは、ゆずの新しい音楽の方向性に嫌気が差したからではなく、ぼくの内面に大きな変化が起きたことが原因だった。
学校を卒業し、社会に出ると、常にぼくたちの前に敷かれていたレールはなくなる。そしてレールのない、答えのない人生を生きていくことになる。「次はこれを勉強しましょう!」「その次はこの経験を積もう!」と、誰かが次のステップを優しく教えてくれることはなくなり、自分の思考と意志で物事を選択し、行動することが必要になる。その結果なにが起きたとしても、自分の責任であり、そこで潰れるのか、はたまた乗り越えるのか、それも自分の責任だ。
今となっては、そのことがよくわかるし、それこそが「生きる」ことだと考えている。今も自分の選択によって生じた結果に、苦しみ、たのしみ、もがいている。しかし、社会人になりたての頃は、それが理解できていなかった。自分の意志に反したことをしなくてはならないことも、自分を取り繕って気の合わない人と協力したり、決済をとらなくてはいけないことも、すべては会社のせいにしていた。「会社はきみのために存在しているわけじゃないし、きみのやりたいことをやる場所じゃない。だから社会は回っているのだよ、fishmanくん」。
しかし、当時のぼくは冷静に物事を考えられず、自分の感情と向き合うこともできなかった。そして、だんだんと元気がなくなり、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまった。会社で仕事をすることがとても辛かったし、自信も自尊心もみるみるうちに削げ落ちていった。
すると不思議なもので、だんだんと「ゆず」を聞くことができなくなっていった。なぜなら、ゆずの希望のメッセージがとてつもない重圧に感じたり、あるときには薄っぺらく中身のないものに感じるようになってしまったからだ。「そんな綺麗な言葉を歌われても、明日も会社に行って嫌な思いをしなくちゃいけないんだよ無責任な。」当時は、そんな風に思っていたような気もする。
改めて言語化すると、これはものすごく、ものすごく悲しいことのように感じるが、一方で自然で当たり前なことのようにも感じる。人生は諸行無常で、自分の選択によって、状況も心境も目まぐるしく変化していくものだ。そんな人生で、今まで信じていたものを普遍的なメッセージだと捉え続け、それに縛られながら生きることは、自分の感情と向き合うことを放棄し、結果自分に苦しい思いをさせることにつながりかねない。そこは、"うまいことやっていく"しかないんだろうなと、思う。
今日もたのしく、健やかに過ごしていきたい。
(今では、すっかりゆずっ子に戻りました!)
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