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音楽会「夜の風」

私が昆一成さんに初めてお会いしたのは、昨年末。ピアノのある邸宅にアマチュアピアニストが集まるホームパーティだった。ベヒシュタインのあるサロン的空間でワインを飲みつつ、気が向いた人がピアノを弾くという、なんか貴族みたいな集まり。そこで昆さんが弾くのを聴いて、よほどの基礎練習と練習時間を今重ねていないと出ない、音の厚みと技術にすごく驚いたのだった。

でもそれで生計を立てているようではないようで、聞けば昔は夜の仕事をやっていたものの、今はピアノに全集中するために田舎に引っ込み、寿司チェーンで働いているという(多分バイト)。会社員の給料の大半が税で持っていかれる今の時代、時間が何より大事な人には賢い選択だ。決して器用ではないが勇気がある。そして積み重ねた音には説得力がある。

そしてお話していても、非常に愛想よく接してくれるものの、常にうっすら音楽に意識が奪われているというか、心ここにあらずな感じも、プロによく見られる気配だった。そしてなんというか・・本当に失礼なのだけど、時代を間違えて生まれてしまったような・・なんとなく今の世界に居心地が悪そうな感じがした。

そのなんだか浮いた感じも独自の色合いとして、「昔ホストだったがピアノのために〇▼寿司でバイトしてる人」と強く記憶された。

その後SNSでつながると、予想通り音大受験生のような練習日記が日々更新されていた。そしてギターの弦かという頻度でピアノの弦をばんばん切りつつ仕上げたらしい、渋谷ホールでのコンサートに足を運んだ。

メトネルのピアノソナタ「夜の風」を中心とした朗読劇。朗読の古津麗さんが声色、表情を駆使して自在に世界を作り上げ、そこに昆さんの演奏が入る。

メトネルのエレジーから演奏が始まった。江戸川乱歩的というか、大正から昭和の初期の大衆演劇のような雰囲気だ。ファツィオリの下にイミテーションキャンドルが並べられた、全体にワイン色の会場ともマッチしている。ますます違う時代から、知っている人が誰もいない現代にタイムスリップしてしまった孤独な人みたいな印象が強まる。

カプースチンの演奏会用エチュードも鮮やかでよかった。本人は悔しい部分もあったと思うが、完璧に弾くことよりも自分の表現ができていることの方が大切だと思う。

古津さんの歌、What a wonderful worldや平田紗希さんの優し気なクラリネットをはさみつつ、コンサートの主題にもなったメトネルのピアノソナタ「夜の風」へ。音の重なりや情緒の作りこみも、見事な出来栄えだった。そっと窓から忍び込んでくるような夜の気配は、手触りと匂いを伴う風のように、今も心に残っている。

演奏や、朗読の中に織り込んだらしい昆さんの本音から推測するに、ピアノで生きていくという野心が動機の人というよりも、持って産まれた生きづらさ故に、ピアノがなくては生きられない人なのだろう。

個の集合体である社会とは、全員どこかズレているはずなのに、私たちは何となく誤魔化して生きている。昆さんの、自分を生かすための選択は正当な努力のようにも思う。

演奏終了後、昆さんは私が見た中ではじめて、身体と心のピントがあったように、迷いなく「今」に存在し、笑っていた。私はその輝きを見届けて満足し、会場を後にした。

明日からの生活は、また理想の演奏を求めて、愉しくも苦労の多い日々だろう。でもきっとその先に、今は予想もしないような、ご褒美のような瞬間もあると思う。不器用で愛すべき生き方を、もの珍しい鉱石を見に来る通行人のように、これからも勝手に、気まぐれに眺めさせてもらおうと思う。

この日は昆さんのお誕生日でもあったのだそう。
さんざん失礼に、好き放題書いたけど、お誕生日おめでとう。