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ホロヴィッツの目線

昔渋谷のタカギクラヴィアで、その頃習っていた同じ門下の友人と「展覧会の絵」を演奏した。タカギクラヴィアはスタインウェイというピアノの輸入販売の会社だ。

2台ピアノ版のセコンドを担当した友人は木村多江似の美人で、優しげで繊細な音色が持ち味だ。なので私も音量を小さめに調整したりしていた。しかしその本番では、友人の音に私の音が完全に食われた。特に「古城」という暗く恐ろしげな曲では、波が押し寄せるように何かが迫って来て、一生懸命音を太くしようとしても到底かなわなかった。

いくら本番に向けて猛特訓したとしても、あの音の要素は彼女にはないものだ。このピアノは、何かすごい調律をしているのだろうか。その後、私が弾いた方のピアノで彼女がソロを弾いた時は、いつもの彼女だった。

発表会が終わった後、私はそのピアノをひとりで弾いてみた。弾き始めてすぐ、誰かの存在を感じた。眼光するどく、冷ややかに、そして楽しげに笑うふたつの目と目が合った。「私が分かるのかい。お嬢さん、君はどんな風に弾きたいのかな」。どきりとした。しばらく弾いて、御礼を言うような気持ちで別れた。

こういうピアノがあるのだ、と驚いた。何百年も持つヴァイオリンやビオラならありえるのかもしれないが、ピアノはそう長くもつ楽器ではないから、これまでそんなピアノに会わなかったのだろうか、などと考えた。

すぐに図書館に行って、昔読んだタカギクラヴィアの本を借りた。そしてその写真から、あのピアノが、ホロヴィッツというソ連の名ピアニストが生涯持ち歩いたピアノだと分かった。悪魔的で冷たく、同時に暖かい眼。そう思えば、あのピアノに感じた存在は、今私がイメージするホロヴィッツのイメージに重なる。

後日ピアノの先生に話したら、「私も昔そういうチェンバロに会ったことがあるわ」とおっしゃっていた。「歌うのよね、はっきり人の声で。それも男女なの」。

何もかも思い込みかも知れない。だが私はホロヴィッツの演奏を聴くとき、いつもあのピアノの中で合った目を思い出す。