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"Franny and Zooey"(『フラニーとズーイ(ゾーイ―)』)Book Review

はじめに
 J.D.サリンジャーを初めて読んだときの衝撃は忘れられない。次々と著作を読んだ。『ナイン・ストーリーズ』、『ライ麦畑でつかまえて』、『大工よ~/シーモア序章』、『このサンドイッチ~/ハプワース』と作品数はそれほど多くないが、サリンジャーお気に入りの「グラース家」の人物が登場する「グラース・サーガ」はパズルのピースを埋めるように読み耽った。
 今回はグラース・サーガでも代表作の"Franny"と"Zooey"の感想をまとめておきたい。本格的な考察は2の再読時に行った。

1. 村上春樹訳(新潮文庫)
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 映画『マイ・プレシャス・リスト(原題:Carrie Pilby)』作中で主人公が一番好きな本として言及することをきっかけとして読んでみた。(映画はサリンジャーへのオマージュが多くあるとのこと)他にも引用される作品は多く、記憶にある中だと『ギルモア・ガールズ』や『一千一秒の日々(島本理生)』で登場した。そんなこんなでどんな名作かと手に取った初サリンジャー。ページごとの密度が濃かった。フラニーで既に魅了された。難しいけど、それでもフラニーやズーイの思考に共感するセンテンスがあると、一呼吸置いてしまう。洋書で購入もしてるので、再読したい。

2. 野崎孝訳(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/product/4102057021/ref=as_li_tf_tl?camp=247&creative=1211&creativeASIN=4102057021&ie=UTF8&linkCode=as2&tag=bookmeter_book_middle_detail_pc_login-2

総評
 村上春樹訳で初読の際は、サリンジャー作品自体初めてだった。細かい描写を必死に読んで、ろくに感想も出なかった。今回は野崎孝訳で再読して理解が深まった。『フラニー』と『ズーイー』はとことん私の中の皮肉っぽさを増長させ、前面に抉り出してくる。傲慢で兄好きで神経衰弱がちな私は、フラニーを鏡にしてしまう。フラニーグラース症候群だろう。心の平穏を保ちながら自意識を表現する(俳優として演じる)には、自分を超越した他者「太っちょのオバサマ」を常に見据えることだとズーイーは説く。長兄シーモアの置き土産ともいえる思想だ。

『フラニー』と自己顕示欲
 大学生のフラニーとレーン。承認欲求が高く、傲慢で、他者より優れてることに疑いを持たない。アイビーリーグや名門女子大通いなら尚更「自分は違う」精神の塊だ。でも結局みんな型にはまっているだけで、自分もその型のどれかに、あるいはいくつもにはまって輪郭がぼけていることが許せないのだ。「自分だけは特別でいたい、他の子たちと一緒ではいやだ。」性別に関わらず、不変の葛藤と感じた。恋人同士の2人はお互いを満足させる存在を演じているようだ。自分と釣り合う相手として好きは好きなんだろう。当時、アクセサリーのように交際するのは主流だっただろうから。

 朝井リョウの『何者』を彷彿とさせる、この大学生たちのエゴのぶつかり合いによる産物。量産型、テンプレ、数々のカテゴリ。多数であろうと少数であろうと、何かしらに分類されるしかない私たち。同じ分類とされてしまう中で出し抜くなんてほぼ不可能。どうせ超えるなら型にはまることのないとことん超越した存在でなければならないと。そこで、自分の存在を明白な事実とするため、神を求める。神はいなくてもいい、信仰することが救済になるならば。私はそれが宗教と哲学の根本だと思っている。

『ゾーイ―』との対話
 1955年。ゾーイー25歳、フラニー20歳。 バディの手紙を読むところから始まる。フラニーとゾーイーへの過去の教育を説明する。神が「光あれ」という前の無の状態という概念を真っ先に教えることを重視したシーモアとバディ。芸術や科学といった比較的地に足のついた学問は副次的でいいと考えた。本質は世界各地で様々な形態を持つ神秘主義の教えだと考えていたから。シーモアの自死に関しても直接的には初めて触れるようだ。ゾーイーはなぜこの手紙を4年ぶりに読んでいるのか、フラニーを救済するヒントを得ようとしているのか。

 ズーイーは風呂から出て、居間で寝ているフラニーと直接対話を始める。どんな利益よりも心の平安を求めているフラニー。大学制度に反感を抱くのは構わないが、一部の例外もいること、そして個人を攻撃するようなフラニーにゾーイーは納得がいかない。個人的感情で処理してはいけない。フラニーが逃げるように選んで神経衰弱に陥ってるのが気に入らない。

 そしてズーイーは次男バディに扮してフラニーに電話をかける訳だ。電話の最後に道が開けるように感じるフラニー。それは一時的な救済でしかないかもしれない。自己を見失ったときの「太っちょなおばさま」はどのくらい効果があるのか。

お酒強いなぁ・・・
 Martiniがマーティニと訳されてることに違和感があったが、私はマルティーニ派。つまり、マーティニでもマティーニでも良いんじゃないか。和製英語が浸透すると厄介だ。兎に角、平気でマルティーニを呑みまくるアメリカ人たちが信じられない。ジンとベルモットなんて脳内再生だけで酔っ払う。




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