記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『生きててごめんなさい』(2023)感想【ケアとヒロイズムと共依存】


福岡から東京まで、約105分のフライト。
ほぼ時間がぴったりだったため、ずっと気になっていた映画『生きててごめんなさい』を観た。

なぜ気になっていたかは至極単純で、
主人公の境遇があまりに自分に重なりすぎていたからだ。

予告編から得られる情報(つまりネタバレなし)だけでも、
・出版社勤務
・小説家を志している
・無職の彼女がいる
という点で、主人公と私の属性はかなり被っている。
(細かい設定の違いはもちろんあるが、置かれた境遇とベクトルはかなり近しいものがある)

だから、まあ、観る前から身に覚えのある話なんだろうとは思っていた。
しかし実際に観ていたら「これは僕だ」と、かなりの時間思い続けた。

感情移入しすぎてあまりのしんどさに「ウッッッ……!」と何度か再生を止めてしまうほどだった。

もしくは、自分まで怒鳴りたくなるほど、憤りを感じる瞬間もあった。
それくらい私は主人公にリンクしてこの映画を観ていた。


以下、詳細のネタバレを含んで感想を書き記しておきたい。

ざっくり言えば、この映画はとある男女カップルの「ケアとヒロイズムと共依存」のお話だったと思う。

小さな出版社で働く男・修一は、莉奈と一緒に暮らしている。莉奈は何をやってもうまくいかず、バイトもしておらず、友達もおらず、両親との仲も悪い。修一は苛烈に働く傍らで、小説家を志して新人賞の原稿を日々書き溜めていた。ふたりの生活はある意味で安定していたが、ふとしたきっかけで莉奈の文才が認められ、出版社で一緒に働くことになり、ふたりの関係は悪化していく……
というのがおおまかなあらすじである。

予告編にもある通り、
「特別になりたい彼」と「普通になりたい彼女」の物語だ。



「世話をする・される」でつながるふたり


作中では明言されないが、ほぼ間違いなく莉奈は修一に経済的な依存をしている。つまり修一は莉奈を養っていると言っていい。
修一が働いている間、莉奈は何をしているかと言えば、ベッドでごろんとして、SNSでエッセイもどきを呟いて、たまにペットショップに顔を出すくらいである。バイトに応募しようという素振りすら、彼女は見せない。

しかし、ふたりの生活はあくまで平穏だった(彼女の才能が見いだされるまでは)。
なぜ修一は何も言わなかったのか?

修一は修一で、「莉奈の世話をする」ということに依存していたからである。つまり、依存されることに依存していたのだ

予告編でも「ダメな君だから愛せたのかもしれない」とあるけれど、
このヒロイズムとでもいうべき欲求が修一の根底にはある。


この修一のヒロイズムは、映画冒頭、ふたりの出会いのシーンでも端的に表現されている。

冒頭は、莉奈が居酒屋のバイトで蟹の脚を客にぶん投げるところから始まる(これは掴みとして最高だった)。
それを客としてたまたま見ていた修一は、帰り道、莉奈をおんぶして送っていくことになる。

「もう歩けそうです」
「いや、大丈夫ですって」
そうやって笑いながらふたりは踏切を超えていく。
修一と莉奈は出会いから、介抱する・されるの関係で始まっているのである。

なにより、この「歩けそう」といって一度は介抱を遠慮した莉奈を、修一はある意味では無視して介抱を続ける、という関係がすでにここで示されている。


捨て犬を連れてくる莉奈


正直、莉奈の文才が作家に認められて…云々のくだりはどうでもよかった。個人的にはそこでめった刺しにされるのを期待して、映画を観始めたところもあったのだが、認める作家も執筆を編集に投げるような三流コメンテーターだし、彼女が呟いているエッセイのようなものも、誰にでも書けそうな浅い言葉であった。
これは作劇の意図でそう見せたかったのか、単にそこの詰めが甘かったのかわからないのだけれど、莉奈が作家の前で言った「普通とか駄目とかそもそもなんなんですかね、誰が決めたんですかね、生きていればそれでいいじゃないですか」という言葉も、(これをきっかけに作家に気に入られ出版社で働くことになるのだが)端的に言って中学生レベルの感性で、そこに対する修一の嫉妬感情はまったくもってリンクできなかった。

ただ、ネタバレをすると、最終的に彼女は「生きづらさ」を表す・著すエッセイストとして人気になるという結末を迎えるので、やはり脚本の意図としては、彼女を才能ある人として描きたかったのだと思う。特別になりたい彼ではなくて、普通になりたい彼女が特別になってしまう、という結論を描きたかったのだろう。
だとすれば、彼女の言葉の扱い方、感性の表現は、ちょっと雑だったと思う。もしくはエッセイとかそういう類を卑下しているようにも思った(エッセイってもっとすごいんだから!)。

前置きが長くなってしまった。
莉奈の文才が認められてから、ふたりの仲は険悪になっていくのだが、
そのさなかに印象的な出来事が起きる。

それが「莉奈が捨て犬を連れてくる」である。
莉奈はペットショップの近くで、目の前で犬が捨てられるのを見てしまう。しかも、その犬は飼い主によって声帯を除去されている。一度はペットショップの店主が預かるも、後に殺処分に連れていかれそうになるのを莉奈は必死で止める。ペットショップの店員とひと悶着あり、結局莉奈はその子を助けるために修一と暮らす家にその子を連れ帰るのである。
(これを皮切りにふたりは大喧嘩をすることになる)

最初に莉奈がペットショップに通う描写が出た時点で、こんな展開になるだろうなとは薄々思っていたが、
「なんで自分の世話を見れない人が別の命を世話しようって思えるんだろうね!?!?」「赤ちゃんが赤ちゃんを連れてくるんじゃねぇー!!!」
と、なんなら主人公よりここは憤って見ていたかもしれない。

しかし、多分これはあるあるで(だから展開が察せられた)。
自立していない人(≒ケアが必要な人)は、不思議と別の何かをケアしたがるのだ。

そしてこの莉奈と捨て犬の関係は当然、修一と莉奈のパラレル(並行関係)なんだけれども、それでも捨て犬の方が私にとっては許しがたい。
端的に言えば、修一は莉奈を捨てることができるけれど、莉奈は捨て犬を捨てることができないからだ。成人女性と捨てられた動物では、大人と赤子くらい責任が違う。自分が責任とれる立場でもないのに、その重たい責任を引き受けようとするのは非道だと私は思う。

まあ、私の思想はいいとして、
ここでのふたりの大喧嘩はかなり赤裸々でおもしろい。

修一も私と同じように莉奈には犬の面倒を見れないことを糾弾する。
ただ、そこには「莉奈はおかしい」「だからバイトも続かなくて、友達もいなくて、親とも仲が悪い」「ずっとそうじゃん」「変われないんだよ」などといった危うい人格否定も含まれていて、ここには修一の醜い「変わってほしくない」「莉奈には駄目なままでいてほしい」という欲望が見え隠れしている。


互いが互いに言う「好きじゃないでしょ?」


この喧嘩でおもしろいところはまだあって、
ふたりが求める愛情の価値観の違いが浮き彫りになる瞬間がある。

口論の終盤、
糾弾され続けた莉奈は「私のこと好きじゃないでしょ?」「好きだったらそんなひどいこと言えないよ」と言う。
それに対して修一も「莉奈こそ好きじゃないでしょ」「世話してくれる人なら誰でもいいんでしょ?」的なことを言い返す。

この一連の流れで、ふたりにとっての「好き」はこれほどまでに違うのだと、その溝が浮かび上がる。

莉奈にとってのそれは、「相手の望む言葉を投げかける」といったような短期的な甘美の提供である。
一方、修一にとってのそれは、中長期的に相手の面倒を見るという「責任」である。
(それが捨て犬に対する態度にも表れている。)

決定的なのが、修一は「なんで俺が別れないかわかる?」と言い出すところだ。「(そしたら莉奈は)生きていけないからだよ」と彼は続ける。

実家にも帰れない、働くこともできない、そんな彼女の面倒を見続ける責任を修一は背負っている。やりたくもない仕事をして、小説にあてたい時間を削って、二人分の生活費を稼ぐ多忙の日々のなかで、その養っている相手から「好きじゃないでしょ?」などと言われたら、修一からすればたまったものではない。(ここまでは感情移入できる)

しかし、修一のよくないところは、実は自分自身こそが莉奈の自立の芽を摘んでいるということに(少なくともこの時点では)無自覚であるということだ。
冒頭のおんぶ以外にも、莉奈が飲み物をこぼした時も、同じように本人の意思に反して「いいからいいから」と半ば無理矢理(まさに赤子に対する親のように)ケアをする修一の態度が見られる。
そして、この口論の決着も「ごめん、ずっとここにいていいよ。なにもしなくていい」と、数秒前には「実家に戻ればいいじゃん(戻れないのはわかっていながら)」と言っていたくせに、結局は莉奈を全肯定して甘やかして、つまりは自立の芽を摘んでしまって、ふたりの関係はまた続いていくのだ。


本当に修一が莉奈のためを思えば、彼女の自立を望むのならば、
修一は莉奈と一線を引くべきだった。

自他境界のラインを定めるべきだったのだ。
少なくとも、経済的な支援をしてはいけなかった。

ふたりが出会ってからどう同棲に至ったかは描かれていなかったが、そこが最初にして最大の修一のあやまちだったと思う。
少なくとも、修一は自分のために仕事をするべきで、莉奈のことが本当に好きなのであれば、莉奈は莉奈自身で生きていけるように、彼女が自分で行動に向かうように、一定のラインで手を放すべきだった。

莉奈はいつも朝起きた時、両腕を天に掲げて修一に起き上がらせてもらうよう甘える。
しかし、彼女は自分自身で起き上がり、自分自身で歩いていかなければならなかった。それを修一は望まなかった。


…重なりすぎて、だいぶ私情が入ってしまっているかもしれない。
ふたりの「好き」が短期的、中長期的というのはちょっと自分に寄りすぎた解釈だったかもなといま反省している。

でも、そう思った理由はもうひとつあって。これも妄想かもしれないけれど、語らせてほしい。

莉奈が修一に言う「どっか行こう」という言葉がある。
劇中でも何度か繰り返されていて、かなり印象的だ。

修一に感情移入した私はそれを「面倒だな」と思った。
修一はただでさえブラックな業務量をこなしながら、締め切りが目前に迫った新人賞の原稿を書き上げようと必死である。

彼には小説家になりたいという夢があるのだ。
夢、とは現実的に言い換えれば長期的な目標だ。
大目標のために生きる人は、人生をロードマップのように捉えがちだと思っていて、わかりやすく言えば、マリオのようにこのステージをクリアしたら次はこのステージというように、ステップを踏むような大局観を持っている(傾向がある気がする、私は)。

反対に、夢のない莉奈は長期的な見方が乏しい(ここには価値判断を含まない)。
彼女にとっての人生は短期的、というより刹那的の方が近しいかもしれない。どうぶつの森みたいな、オープンワールドの世界に生きている感じがする。大目標というよりは、寄り道を楽しむような。莉奈の「どっか行こう」は人生というオープンワールドのなかの「寄り道」であり、ある意味でメインディッシュであるともいえる。
仕事に行く修一を駅まで送る時、莉奈だけ脇道をぼーっと見つめる描写があるが、そこも対比として示唆的なシーンだった(と、言えなくもない)。


などと考えてしまうのは、私がまさに日常でひしひしと感じているからであり、お察しの通り私は、どちらかといえば前者の考えなので、後者の考えを持つ人とは楽しみ方がまるで違う。
それを知れてよかったとは思うし、人間は過去でも未来でもなく今しか生きられないのだから、刹那を楽しもうとする姿勢はもっと自分に必要だと内省もした。でも、いつかこんな自分になりたいと、今の一歩先を掴もうともがいている時に、寄り道を楽しんでいる余裕はないというのもまた事実なんだよな…。



介抱の拒否、普通の彼と特別の彼女


映画本編に話を戻すと、
莉奈は途中で作家(コメンテーター)にアシスタントにならないかと誘われたと修一に打ち明ける。
修一は「できるわけじゃないじゃん!」と怒鳴り、莉奈は「なんで応援してくれないの?」と泣く。
ここでも口論の日と同じ構図が繰り返され、
「私のどこが好きなの?」と莉奈が問い、
「可哀そうなところ」と修一は答える。

それを聞いた莉奈は「そっか」と言い捨て、雨の中ひとりで走り出す。
途中転んでしまったところを修一が手を差し伸べようとするが、もう莉奈はそれを借りようとはしない。修一を押しのけて、自分の足で立ち上がり、また走り去っていく。
莉奈は修一との家をついに出て、ふたりの関係は終わる。

最後も丁寧に(というかやりすぎなまでに)、修一が莉奈の重い荷物を持とうとして、莉奈は断る。自分の荷物を自分で抱えることでしか、自分の人生は始まらないのだ。


ケアする側だった修一が、莉奈がいなくなってから、仕事も小説もうまくいかなくなる描写は、わかっていても見るのがつらかった。
共依存なのだから、彼にも不安定な部分があったのだとは思う(そもそも彼は数ページしか小説が書けていなかった)けど。
仕事を投げ出してまで書いた小説は、時間切れで見てももらえなかった。

ただ、ここの描写はちょっともやっとしていて、彼は締め切り当日の朝になんとか最後まで書き上げたのに、なぜか寝坊をして中身をちゃんと見られることもなく、期限を理由に受け取りを拒否されてしまった。
拒否される展開になることは納得だ。むしろそうならなくてはおかしい。莉奈がいなくなって小説がはかどる!せいせいしたぜ、みたいな展開では話の意味が分からない。だが、なぜ「寝坊」なんだ。
修一は莉奈をケアしているというのを無意識に言い訳にしていたが、実は彼女がいなくても小説を書き上げるほどの努力も情熱もなかったという話なら「完成させられなかった」でいいし、莉奈には才能があって自分には才能がなかったということを突き付けられる話なら「全然面白くなかった」で良かったじゃないか。
なぜ「面白かったのに、ギリ間に合わなくてさ~w見てもらえたら絶対受賞間違いなしだったんだけどな~ww」という言い訳できる余地を修一に与えてしまったのかは謎だ。中途半端すぎる気がどうしてもして、そこはもやりポイントではあった。何か作劇上の意図があったんだろうか。



別れて一年後、ふたりは再会する。
莉奈はエッセイスト(?)として有名になり、本屋でトークショーをやっていたのをたまたま修一は見かける。(ここ、めっちゃ見覚えのある景色だった)

ちなみに修一は出版社をクビになり、公園遊具のメンテナンス業をしている。また自分で作った弁当を昼食に食べ、同僚から調理器具を喜んで譲り受ける描写があり、このあたりは「特別ではない、何者にもなれない普通の自分を受け入れた」という成長として描かれている感じがある。

再会したふたりは出会った居酒屋にやってくる。
(恋愛ものって変化が目に見える成果とか形ではなくて関係性だから、こうして同じ場所で関係性を再演することが多い気がする)

そして、あのときおんぶをした踏切の前にまたやってきて、
「一緒に渡っていいやつ?」と莉奈が問う。
いくばくの時間か修一は考え、そして、顔を上げる。



というエンディングなのだが、
(今回野暮なことにかなりプロットを頭から尻まで書いてしまった。私も小説執筆欲を発散したかったのかもしれない)
まあつまりは、今度はふたりはおんぶではなく、
ともに歩くふたりの大人として、自立したふたりとして関係を再び始めるのだろう。多分。

でも、インフルエンサーというかエッセイストになった莉奈の感じはあんまり好きじゃないので、個人的にはいい読後感というか爽やかエンド!という感じではなかったかもしれない(莉奈がもっと俗なメンヘラではなく、他にない視点で世界を見ている人だったらうれしかった)。
終わり方なら『花束みたいな恋をした』の方が爽やかだった。あれもかなり似た境遇だな~と思って観た記憶があるが、より自分と重なってしんどくなったのは今回の『生きててごめんなさい』だった。

107分ということもあって、かなり見やすいのが善い。
映画はやはりこれくらいにしてほしい。3時間とかやめてほしい。

あとは主演おふたりの演技もよかった。
穂志さん可愛かった。めちゃくちゃ腹立ったけど()
こういう恋愛ものでセクシャルな描写がまったくなかったのも好感度高い。このお話って恋愛なのかと言われたらもはや怪しいんだけども。

それって共依存が恋愛なのかどうかみたいな話でもあるし。


私は共依存が悪で自立が善とか、
自他境界がはっきりしていることの方が健全とか、
最近は自明視されがちだけど、そういう価値観についてなんか判断を保留したい気持ちがあって。
だから、人を愛す前に自分を愛そう、とかそういうありきたりな結論で終わりたくはないんだけれども、このお話を見ると、このふたりを見ると、やっぱり自立はしてた方がいいよねと思ってしまった。
特に経済的な自立はねー…。修一が基本的にはいい彼氏だったから良かったけれども、DVとかだったら悲惨だからね。
まあ精神的な自立もそれは同じか~。稼いでいてもさみしかったら離れられなかったりするもんね。


でも、基本的に共依存ものって大好きなので、もっと観たいな~と今回思った。
なんか共依存ものって、こうして「依存ー自立」という軸で成長して終わるか、メリバみたいにふたりともずぶずぶになって終わるか、あるいは片方が自立して捨てられるか、みたいな結論になりがちだよな~。
今回のは、「共依存」のさまが好きだったんだけれども、結論はあまりしっくりこなかった(好みじゃなかった)ので、色んな共依存の終焉を見てみたい気がしますね。

はあ、久しぶりにひとつの作品にがっつり感想を書いたらめっちゃ疲れた。
7400文字も書いてしまったらしい。
今回、感想でも批評でもなく現代文の読解みたいになってしまった。反省。
自分じゃなくても書ける文章を書いても仕方がないからね…。

まあでも自分が言いたかったこともちゃんと書けたからよしとしよう。

とにもかくにも!

自分で自分の世話を見れない人が、
他の命を世話しようとするのはやめよう!!


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?