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2011年8月、石巻の記憶

<今やれることを>

2011年8月。
東北沿岸部へのボランティア派遣が決定しました。
3月下旬のさいたまスーパーアリーナでのボランティア活動で知り合った人の紹介でした。
宮城県石巻市内の福祉避難所での福祉支援です。

知人からメールをもらい一瞬ためらいました。
本当に行っていいのだろうか、と。

SSAに避難した人たちのほとんどは、原発事故で故郷を亡くした人たちでした。
沿岸部で避難生活を送っている人たちは、家族や友人を亡くした人たちです。
どちらも亡くしたことはないから苦しみや悲しみはわかりません。
こんな私がPTSDやグリーフケアにどこまで対応できるのか。
書類をまとめ荷造りをしながら考えても、それでも答えが出ませんでした。
25の若造が行っていいのかわからない、わからないけれど。
でも何かがわかるのなら行こう、と。

新幹線が仙台駅に到着し、夏の空気を思いっきり吸い込みました。
やれることをやろう。

<沿岸部にて>

仙台駅から団体と合流し、沿岸部へ向かいます。
基本的には高台の道路を通っていくのですが、途中何カ所か沿岸部を通過しました。

それは思わず声を失う光景でした。
壁を抜かれた建物には鉄骨が無惨に残り、その合間に海と曇り空が広がります。
見晴らしの良さが、これほどまでに心を哀しく締め付けることを初めて知りました。

ガードレールがとんでもない方向にひしゃげ、青看板はいくつかの破片になって散らばっていました。
中央分離帯に巨大な鯨が転がっていると思ったら、それは鯨の絵が描かれた大きな貯水タンクでした。

人影はありません。
ダンプカーが粉塵を巻き上げる中、マイクロバスは激しく揺れながら進みました。
窓に粒がついて雨かと思ったら、蝿でした。
たくさんのカラスがとまっているのは大きく乗り上げた船の上でした。

何台かの警察車両とすれ違います。
光景が網膜に焼きつかれる痛み。
しかし絶景を見たときに感じる心地よさではありません。
ジリジリとした辛い痛みでした。

『復興』なんて言葉は出てきませんでした。
ここから何をどうしていけというのか。
そもそも本当にここに人がいたのか。
生活していたのか。
それすらも疑いたくなる。
ここからどれくらいの人が海へ逝ったのか。
あの日テレビでみた黒い波は、どれくらいの大切なものを飲み込んだのか。
どれほどの命が――。

疑問でも怒りでも哀しみでもない感情が込み上げてきました、
全部が混じって、ああこれは恐怖なのだと。

<現地の避難所>

宿舎は石巻市内山間の公民館の一室でした。
荷物を置き、早速マッチングされた支援先である福祉避難所へ向かいます。
2011年8月当時、仮設住宅の建設が急ピッチで進む中で一般避難所は閉鎖の方向に向かっているものの、福祉避難所は少々特殊な扱いとなっていました。
支援物資は潤沢だし様々な医療福祉専門職が集まっていました。

私の行った福祉避難所は、津波によって崩壊した病院がそのまま『移転』した避難所でした。
避難者はもちろん患者、だが急性に医療を要するわけではなく、つまるところ退院は出来る状態だがそこからの生活再建に支援を要するということです。

避難者だけではありません。
医療スタッフや介護スタッフは皆病院の看護師だったり地元のヘルパーたちでした。
それはつまり支援スタッフであると同時に被災者でもあるということ。

外部スタッフと休憩場所は共同なのですが、そのときよく耳にする話題は決まっていました。
仮設は当たったか、業者の予約がなかなかとれない、親戚が帰ってきた━━

3月下旬に行っていたさいたまスーパーアリーナとは違っていました。
災害直後の急性期から亜急性期ということだったり、避難理由は原発被害だったり、規模が違っていたり色々とありますが、やはり違うのはここは『現地』ということです。
さいたまではスタッフのほとんどは埼玉県の支援者だったが、石巻は石巻市民や女川市民が支援者。
支援者であると同時に被災者である人たちにどんな言葉を選べばいいのか、最初こそ戸惑いましたが、しかしそれも最初だけでした。
飛び交う方言の生命力に気付いたとき、
「今、やれることをやろう」
それしかありませんでした。

<恐怖の記憶>

避難者のほとんどは高齢者、支援内容はコミュニケーションや喫茶コーナーの提供です。
例えて言うなら、大きくてそんなに忙しくはないデイサービスみたいなもの。
その中でも1人、記憶に残っている方がいます。
高齢の認知症を患っている方です。
認知症は見当識が障害されているため、震災時のことはあまり語らない、語れないといいます。
しかしひょんなことから、その人は津波の記憶をポツリポツリと語りだした。

「田んぼがあったんだけどな」
「川になった。黒い川」
「渦まいて、向き変わった」
「その向こうの道路も黒い川になった」
「裏の菜の花畑も黒い川になった」

重度の認知症のその方が津波のことを語ったのは初めてだったらしいです。
私は別に津波や震災のことを聞こうと思っていたわけではないし、ましてやそれは御法度でした。
何気なくおしゃべりしていた田んぼの話から、『黒い川』の話になったものだから正直戸惑いを隠せなかった。

感情を伴う記憶は強く残るといいます。
私自身も避難訓練や余震のたびに、3月11日の恐怖が蘇っていました。
それはたとえ認知症であっても変わらないのでしょう。
襲い来る波は黒い川、引き波は川の流れの変化、さらわれていく市街地、それを見ていたCさんの小さな眼。
やきつく恐怖感、それが半年近く経った8月に蘇る。
改めて『被害』の甚大さを思い知りました。

<住めない仮設>

9月末にこの福祉避難所の閉鎖することが決定しました。
ケースワーカーやソーシャルワーカーの出入りが激しくなりました。
これからどうなるのか。
仮設か、親類宅か、あるいは施設か。

この避難所があるのは小高い山の上で、その目の前に仮設住宅が建設されていました。

「あそこは中はいいんだけどね、車がないと」
「坂の雪道の運転なんて出来ない」
「買い物も出来ないし病院にも行けない」

私も同伴で介助しながら見に行きましたが、福祉避難所の目の前の一般仮設住宅はある意味で皮肉だと感じたのは事実です。
ならば施設か、と簡単にもいきません。
そもそも入院前は自立した生活をしていた人たちがほとんどです。
施設介護をしている身が言うのもなんですが、そこまで急な生活の変化はどうなのかと思います。
それ以前に介護施設も多くが流されていて、絶対数が足りていないという問題もありました。

自立、生活再建が叫ばれています。
阪神淡路大震災での教訓が生かされ地域での絆、つながり。
私の所属している支援団体もそれがモットーであり、他の避難所へ行っているボランティアはその方向に向かって背中をおしていました。

しかしここは少し事情が違う。
普通なら結ばれてゆく絆が、ほぐれてしまう。
それぞれが行き先を見つけて、介護施設へ、家族のいる仮設住宅へ、東京や大阪の親類宅へ去っていく。
残された人たちは目の前の『住めない仮設』を眺めるしかありませんでした。
「来月末からどこに住めばいいんだろうか」
普段は元気な高齢者が、夕暮れなにがしでもないボランティアに尋ねる。
私は何も答えることができませんでした。

<ハゲ頭>

閉塞感が漂い始めた中、ある方が避難生活をしはじめてから毎日書いているという俳句を見せてくれた。
3月からだからノートはボロボロで鉛筆もかなり短くなっていましたが、字は力強く575の言葉を刻んでいた。

『朝顔は主なくとも生きていく』
『ボランテヤ、遠い国からありがとう』
『泣いてても笑っていても、朝はくる』
『立ち上がれ、さあ立ち上がれ、立ち上がれ』

その中でいくつか違う名前がありました。
どなたかと聞くと、先月まで隣のベッドにいた方だとのこと。
どこに行ったのか、と聞くと大阪の家族が迎えにきたらしいです。

ここにきて涙があふれてしまいました。
仙台、石巻に入って初めて視界がにじみました。
体育館の床に頭をこすりつけるように謝りました。
言葉を失った私に対し、「大丈夫ですよ」とその方はその場で一句。

『ハゲ頭、停電のとき役に立つ』

西日に光る綺麗なハゲ頭がニカッと笑って、私も思わず吹き出しました。
二人で大声で笑いました。

<故郷>

ある日、オカリナの演奏会が開かれました。
同行しているボランティアの1人の特技であるとのことで、体育館の一角に臨時のステージをこしらえました。
澄んだオカリナの音が広い体育館に響きます。
誰もが動きを止めて、聞き入りました。
曲目は『故郷』。

「大好きな歌なのに、悲しい」

1人の避難者が呟いた。
想う両親や友人たちもいない。
志を果たしていつか帰る場所もない。
全ては海に持っていかれた。

「帰る故郷なんて、もうない」

すすり泣きの声が聞こえ、オカリナの音色が悲しく響いた。

<理由>

歌の得意な方がいまいた。
散歩に案内すると、市街地を見渡せるベンチで必ず熱唱します。

「これでも俺、肺がんなんだぜ」

元気な姿に正直意外でした。

「リハビリにもなるしな。それに俺歌うの好きだし。がんばるんだ。まあ癌は仕方ねえけど、この歳でこんなことになっちまったがな。でもがんばることに変わりはねえ。あと10年後も20年後も歌うんだ」

力強く声が、沿岸部を見下ろす高台に響きます。
歌うのが好きだからがんばる、というその方の言葉に励まされていました。

もうひとり、身体に麻痺のある若い男性がいました。
高齢者の多い避難所には似つかわしくない方でしたが、避難者たちと一緒に真剣に碁を並べたり、天気の良い日は車椅子バスケを楽しんでおられました、
世代の近い若手のスタッフに話しかけてよく冗談を言っており、私もその方とよく何気ない世間話をしていました。

「もう死にたいと思ってた。でもあの日があって、俺は偶然に生き残った。
あのときは生きててよかったと思った。
それからかな、色んな人と出会うことになって――自衛隊の人とかボランティアさんとか。
生かされてる、ひとりじゃないって思ったんだ。
それからだよ、リハビリ頑張ろうって思ったのは。
たくさん元気をくれた全国の人たちに会いに行きたいんだ。
きちんとお礼をいいに行かなきゃ」

目がまっすぐと海を見つめていました。
あのとき襲いかかった海です。
その背中の広さに言葉が出ませんでした。

<支援の意味>

私には帰る家があります。
家族が待っています。
「また来るね」とは言っても実際に来るのは難しいでしょう、
バラバラになった行き先を訪ねることも困難でしょう、
しかし嘘になってしまうとしてもそうとしか言えませんでした。

「ありがとう、元気でね」
と手を握り続けた。
私は私の故郷へ、日常へ帰ります。
しかし被災者にとっては今はこれが日常です。
先が見えなくとも、明日はやってくる。

支援とは何なのか。
それは後ろでそっと支えることだと思います。
前に歩むのを戸惑っているときはそっと背中を押す。
後ろに倒れそうなときは支える。
それは思いやりや絆の意味とよく似ています。

災害ボランティアとは何か。
そもそも災害ボランティアがいないのか一番です。
被災者たちが自力で立ち上がり、それぞれのペースで生活を再開していく。
この避難所にいるスタッフのほとんどが地元住民であるように、瓦礫撤去も地元企業がするべきなのだ。
その仕事を奪っているのであれば復興支援でも何でもない。

しかしあえて言いたいのは、まだ支援の手が必要とされているということです。
行き先がわからない高齢者、毎日行われる葬式、瓦礫の山積している海岸。
震災から半年近く経ち、報道も少し落ち着いてきました。
ボランティアの数も減りつつあるらしいです。

避難所が閉鎖されて支援は終わりではありません。
仮設での支援もあるでしょう。
新しい日常を建て直すまで継続的な支援が必要です。
生活が立ち直った頃、ボランティアは気づいたらいなくなっている、そんな形が理想だと思っています。

何年かかるか、望んだ生活を得られるか、元に戻れるかわかりません。
わからないことだらけです。
しかしどうか息の長い思いやりを――そう祈りながら、最終日の避難所を後にしました。

<プレリュード>

石巻から約2時間。仙台駅へ着きました。
バスの中ではずっと車窓を眺めていました。
車窓に浮かぶのは沿岸部の声を喪う光景ではなく、ここで出会った人たちの表情や声、涙や力強さでした。

やまびこ号が仙台駅を発ちます。
大宮までは約2時間、よくよく考えれば近いものです。
軽くなった荷物を背負い、車窓を眺める。
新幹線は一路南へ。

「25の若造が行っていいのか」

その答えは結局よくわかりませんでした。
満足のいく傾聴ができたのかと聞かれたら、本当に横でうんうん頷いていただけだったように思います。
励まそうなんて思ってもいないけど、結果として励まされてしまったなあと感じています。

でも行かなければなにも知ることはなかった。
沿岸部の光景も、福祉避難の実態も、飛び交う方言の生命力も。
ハゲ頭が停電の時に役に立つことも、海を見下ろす高台に決意がたくさん込められていることも。
誰かを支援するということの意味も、多分知ることはなかったと思います。


さあ、立ち上がろう。
深呼吸をすればあの日の空気を思い出す。
みんな、その人らしく幸せで笑っていられるといい。
それでいつかまた再会し、笑いあえたらいい。

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