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【正史三国志から見る諸行無常 Part.2】 豪族たちに振り回され続けた呉王朝。そして、人が立派で居続けることの困難さ

皆様、いかがお過ごしでしょうか。僕の方は先日、堆肥を散布したりとブロッコリーやネギを植えるための準備を進めております。来週あたりからは早速、じゃがいもを植える予定です。

さて、農業の話題とくれば三国志のこの王朝を外すことは出来ません。日本人の主食は米ですが、恐らくはその米を我々にもたらしたであろう華南地方の子孫である呉王朝。考えるに春秋戦国時代で秦王朝に滅ぼされた楚ですとか、そういった南方系の国々の民衆が日本へと命からがら渡ってきて、命がけで日本の国土を開発しながら「日本人」となって、同時に彼らが持っていた米作りの技術が伝わったのだろうと推測します。結果として狩猟採集生活の時代と違って、貧富の差が生まれてしまうキッカケにはなりましたけれども、彼らのもたらしたものは極めて大きかったはずです。

話は逸れましたが、呉王朝は三国志において最後まで生き残った王朝です。一番最初に滅亡したのが蜀王朝で、次に曹操が創立した魏(曹操存命の時点では王朝になっていないため)。最後が呉王朝。結論として感じるのは唐王朝の全盛期を現出した李隆基(玄宗)同様に、名君と若かりし頃は誉高くとも歳を重ねていけば誰しもが衰えるように、孫権自身も立派であり続けることが出来なかったということです。我々自身にも言えることなのですが、歳を取っても立派でい続けることの困難さを身を以て我々に孫権が教えてくれているように思えます。

呉王朝の特色

呉という王朝は春秋戦国時代の楚から始まって、彼らは殷王朝の遺臣たちの子孫だと言われていて、自分たちで勝手に「王」という称号を名乗りだす上に3000人にも上る貴族たちが割拠していた状態でしたから当然、中央集権は構造上できない性質を抱えていました。その気風は呉王朝にも引き継がれています。そんな呉王朝はどんな特徴があったのか。

  1. 自分たちの国をしっかり守れればそれでいいという気概のみ

  2. 守ればいいという家訓があるために外に打って出るということはほぼない

  3. 豪族たちから成る連合体なので統治形態は基本的に緩い

  4. 上記3でも述べているような要因があるため中央集権化し辛い

  5. 豪族たちの利害調整をバランスさせることが極めて困難

  6. 父→兄→弟の順番で統治している、いわば家族経営の典型例そのもの

魏の曹操、蜀の劉備玄徳といった人物たちのような突き抜けたカリスマは出てこない反面、孫権自身もそんな性格を分かっていたのか、若かりし頃はよく書を読み、自分が間違っていたと思えば激論を交わして激怒した後で涙ながらに謝罪をしたという逸話もあります。優秀な側近たちも孫権を支えていましたが、長引く戦いの日々の中で次々と亡くなっていきます。当然、孫権の統治能力も老いと共に陰りが見えてきます。

呉王朝の苦悩

「赤壁の戦い」で曹操を撃破して危機を脱するも、どんな組織も問題を抱えているもので、盤石とも思えた呉王朝も苦悩が多かったのは確かです。

  1. 家族経営の運営スタイルのために暗愚な人物が出れば流れが止まる

  2. 連合体のために仲介役の人物がいなくなれば瓦解のリスクが高まる

  3. 「呉を守り抜け」という先代の遺言書の縛りが強すぎる

  4. 農業開発に多大な資金を要する

  5. 「二宮事件」で豪族たちと皇族の権力闘争が激化

肥沃な農業用地を持つ魏王朝に対抗するべく、呉王朝が進めたのは農業開発。後の世で司馬懿仲達の子孫が建国する東晋王朝、それに連なる南朝。そして我々日本においては平清盛が宋銭を輸入するなど取引相手として重宝していた南宋王朝。中華の中心とは言えない南部で長年生き残ることが出来た理由は孫権が農業開発に精魂を傾けた結果とも言えます。

孫権は自身の衰えも感じ始めていたのか、長男の孫登を溺愛して英才教育をしていました。結果として孫登は持ち前の人徳に加えて、優秀さも身に付けて文句なしの後継者へと育つはずでしたが、この孫登が急死します。そうなると次期後継者を巡る争いが当然のように起こります。次男の孫和と三男の孫覇が争い始め、両派閥の思惑も重なって権力闘争が激化して、孫権も手が付けられないほどになりました。

どちらを後継者に選んでも結果的に呉王朝は分裂することは明らか。ということで孫権が選んだのは側室が生んだ孫亮を後継者に指名するという何とも言えない方法を取ります。孫和は幽閉され、孫覇は処刑され、忠臣の一人はそんな混乱極まった呉王朝に悲嘆して憤死するという「一体どうすれば孫権は良かったのだろうか」と読み進めていて感じずにはいられない呉王朝の衰退期です。

日本において孫権と同じ失敗を犯してしまったのは、かの織田信長でした。長男の信忠を溺愛し、常に鷹狩りにも連れて行くほどの溺愛ぶりでした。そうなると当然、他の兄弟のことは放置同然。本能寺の変の直後に溺愛していた長男・信忠も明智光秀に討たれてしまいます。そうなると残ったのは次男・信雄と三男・信孝。言うまでもなく、この二人は父親と違って英邁ではないどころか、暗愚そのものだったようです。信長と言えど、呉王朝の歴史には学べなかったようです。

呉王朝の滅亡から思うこと

ありとあらゆる誘惑がある中で自分自身を律し続けることの難しさ。どれだけ若かりし頃は優秀でもやがては枯れていく。その定めを人は逃れることが出来ないものなのだろうと虚しい気持ちにも呉王朝の滅亡は僕自身の心に突き刺してくるような気分になります。

  1. 分社化は連帯感を持ちにくいという危うさを孕んでいる

  2. 中央集権化も当然問題はあるが、分社化も完璧ではない

  3. 結果的に滅んだが農業という根幹はその後も残った

  4. 南朝文化の土台を結果的に作った

孫権が若くして散った父や兄を見ていた上で、自分の足りないところを分かっていて、激突しながらも謙虚に口やかましい部下の直言にも耳を傾けていた内は良かった。けれども、歳を重ねてくるとシニア世代の方々が口を揃えて言うのは「若い頃と違って我慢が中々出来なくなってしまった」ということです。孫権だけが特別な事例なのではなく、今を生きる僕を含め、誰もが成り得る話だと再認識させられます。

呉王朝には故事成語にまつわる逸話もあり、晋王朝の軍勢を率いる司馬炎が呉王朝に攻めかかり、滅亡までの最終盤となる戦いの前に軍議を開きます。首都・建業へと攻め入るか。それとも改めるか。その時に家臣の一人が口を開きます。

「楽毅は済水の一線で燕を斉に比肩させた。今、兵威は振興し、譬えるならば竹を割くようなものだ」

楽毅は盛況を誇っていた斉を滅亡寸前まで追い込んだ名将の一人ですが、この出来事から「破竹の勢い」という言葉が生まれました。ちょっとした豆知識です。

最後になりますが、人が自分を律し続けることの大切さは分かっていても、それを実行し続けることは極めて困難で、時には投げ出したくもなるでしょう。僕自身も歳を取ってきたら正直、しんどくなるはず。だからこそ、家族のみならず、後継者となってくれる人たちやそれを支えてくれるであろう人たちを育て、自分も見つめ直しながら育っていく。このループを四苦八苦しながら作り上げていくしかないのでしょう。近道はないので、やれることをしっかりと一つ一つやっていくしかないと再確認させられた呉王朝の興亡だったように感じます。


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