【掌編】 やさしさほどける “小さな口福”
梅雨が来ない。
そう思っていたら、とんでもない猛暑に襲われ、息も できないような暑さが続いた。
なんとかそれに身体が慣れてきたかと思ったら、今度は梅雨が戻ってきた。忘れ物をした気まずさか、しっとりとしたところのない乱暴な雨が続く。
こんな天気が続くと、湿気が体に染み込んで、ずっしりと重苦しくなってくる。頭はサイズの合わないヘルメットを被らされているようだし、肩や首の周りには鱗でもびっしり生えているんじゃないかと思うほどガチガチだ。胃腸もぐずぐずと湿っぽく、常に何か欲しがるのに、いざ食べると、違うこれじゃないというように、ずっしりもたれて滞る。
こんな時はあれしかない。
お米を1カップ、炊飯器に入れる。そのまま適当にざぶざぶと洗い、さらさらと水を流す。最近のお米は綺麗になったから、「研ぐ」じゃなくて、「洗う」で良いと、言っていたのは誰だったっけ。たしかちょっともっちりとしたお団子みたいな人で、眼鏡の奥の目が優しげで、一緒にいるのは心地よかった。
どうせなら無洗米でいいじゃないと言った人もいたな。ちょっとアッシュに髪を染めて、伊達眼鏡して、いつもおしゃれな格好をしていたっけな。でも無洗米は、あんまり好きじゃなかったんだよな。
小学校の家庭科の授業では、親指の付け根のところで、ゴッシゴッシと押し潰すように洗えって習ったものだ。最近の小学生は違うのかな。まぁ、カラフルなランドセルといい、英語必修といい、私が子供の頃とはもはや別の世界の話だ。親になる人も大変だなと他人事のように思う。
洗った米の水気を、これまた適当に切る。どうせこの後、水を入れるのだ。ただ大事な、少なくとも私はこれがポイントだと思っている一手間がある。ちょろりと胡麻油を垂らし、濡れた米にまぶすのだ。水気があるから全部弾かれてしまいそうな気がするが、意外にしっとりと、化粧水をつけた後に乳液を伸ばすみたいに、お米の表面がつやつやとしてくる。こうすると炊いた時に米が細かく崩れるのだそうだ。
粒を残し、粘りが出過ぎないようにするいわゆる日本のお粥とはそこが違うんだよと、教えてくれたのは、サイズの合わない眼鏡をかけた黒髪のあの人。日本語では「花が咲く」と言うんだったっけ。もうその発音は覚えてないけれどなんて綺麗な響きなんだろうと思ったことは、今でもこの作業をするたびに思い出す。
お粥の規定量の水と酒少々、おつまみ用の帆立貝柱を1個おまけで放り込んだ。炊飯器の釜の底に申し訳程度のお米と水。砂浜に取り残されたように不安げな貝柱。おっと、忘れてた。鶏がらスープをサラサラと、あっ、少し入れ過ぎた。まぁいいか、しっかり味で塩分補給だ。
お粥モードでスイッチオン。途切れがちのメロディが流れる。この炊飯器も長いよな。最近、めいっぱいの分量で炊くことは減ってきた。5合炊きに買い換えることはもうないかもしれない。
シャワーを浴びて、髪を乾かすのもそこそこに、ソファに体を横たえる。
そのまま体が吸い込まれていく。遠くからの蒸気の音がさざなみみたいで、自分が海の底に揺蕩う貝のような心地がする。
呑気な電子音に薄く覚醒。かちゃかちゃと食器が重なる音も聞こえてきた。
「ただいま。よく寝てたね。おつかれ?」
手にお椀を持って、君が言う。
「ちょっとバテ気味だったから、お粥ナイスだわ。」
ああ、君も体調いまいちだって言ってたもんね。
体を起こしてみると、もう食卓にはスプーンと箸が行儀良く並んでいる。買い物袋がその横に。
「あれ?でも何か買ってきてくれた?」
「うん、でもめっちゃ以心伝心よ。」
そういうと、君はガサガサと音を立てながら、買い物袋から黒っぽいトレーを取り出した。
「値引きされてたし、そのまま食べれていいかなと思ったけど。」
黄色い値引きシールがついたビニールを破ると、つるりと滑らかな肌をしたホタテのお刺身。君はそれをお椀の底に綺麗に並べる。小さな花みたいで可愛らしい。
炊飯器の蓋を開けると、ふわりと湯気が上がり、遅れて優しいほこほこしたおまんじゅうみたいな香りが鼻をくすぐる。
ワクワクしながら目を擦り、食卓に座った。慣れた手つきで君がおたまを手に取った。
熱々のお粥をお椀に注ぐ。
白い砂浜に埋もれるようにホタテが沈んでいく。
「少し待つと、ちょっと半生になって美味いよ。」
ネギと胡麻をちらし、胡麻油を垂らしたお椀を私の前にことんと置いてくれた。
「勝手にお粥炊いちゃってたけど、結果よかったね。」
「いや、もうバッチリよ。」
こんな食べ方知らなかった。
待ちきれないように匙を白いふわふわの海に沈める。
貝はどこにいるのだろう。だいぶ温もってきてるだろうか。
ふうふうと冷ましてから、一口頬張ると、口の中にかすみ草のような淡い華やかさが広がった。
ホタテを見つけた。
本当だ、半生で、外は熱いのに、中はまだねっちりと冷たい。ほわりと解ける外側と、しっとり冷たくてプリッとした内側。
それらが私の口の中でお粥と混ざり合い、じわじわと温まってくる。
私も徐々に温まる。
冷房に冷えた体が解けてくる。
芯まで温まるにはどうしたらいいかな。
ほふほふと猫舌な君が、お粥を頬張る様を見て、少し笑いながら、そう思った。
ーーー了
久しぶりのオリジナル掌編です。
最後までご覧くださりありがとうございました。
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