そして誰も見えなくなった
確かにそこに存在しているはずなのに、自分以外、誰にも見えていないということがある。
最近、そんなホラーのような場面を二度、目撃した。
一つ目は、家の近所にある池でだ。
その小さな池では、鯉(コイ)にエサをあげてもいいことになっていて、
とても蒸し暑い夏のある日、5歳くらいの女の子とお母さんがエサをやりにきた。
ホラーはすぐにそこで起きた。
子どもが言った。
「あ!金魚さんがいる!!」
すぐにお母さんが言った。
「あれはね、金魚じゃなくてコイって言うのよ」
それを聞いて、ふうん、と子どもはバツの悪そうな顔をした。
またある日、低学年の男の子とお母さんが鯉にエサをやりながら言った。
「ママ!金魚もいる~!」
「まさる君、あれはコイよ」
またあくる日。
鯉にエサやってもいーい?、子どもが言った。
一回だけね、とお母さんが言う。
「金魚だぁ~!」
「金魚なんてどこにもいないでしょ、あれはコイ」
その池には確かに金魚がたくさんいた。
しかし、オトナは誰も金魚が見えていなかったのだ。
なぜ?
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少し金魚の話をしよう。
金魚は大きくなる。
どのくらいかというと、たぶん、今、あなたが思い浮かべたものよりもずっと大きくなる。
小さい水槽だとそこまで大きくならないが環境さえ整えば、
金魚すくいの金魚が4センチくらいだとすると、最大30センチ近くまで成長する。デカイ。
とはいえ、鯉は60センチくらいのサイズなので、
金魚と鯉の違いなんて知らなくても、見たらすぐにわかる。
何より幼い子どもでもわかるくらいだ。
それなのになぜ大人には鯉しか見えていなかったのか?
なぜ「あれはコイよ」と子どもに平気で間違ったことを教えてしまうのか?
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子どもの目は世界のありのままを映し出す。
目の前にあるものが世界そのものなのだ。
しかし、大人になると、いろんなフィルターを通して世界を見ることとなる。
例えば、「池にいる魚は金魚ではなく鯉」「金魚は小さい魚である」といった偏見や先入観というフィルターから、
肩書きや忖度といった色眼鏡まで、挙げ出したらきりがない。
真っ白のキャンバスがどんどん色で埋め尽くされていく。
もちろんそれらが全て悪いことだとは言わない。それぞれの処世術かもしれないから。
しかし、オトナになるにつれて、一つ、また一つとこの世界から何かが消えて、確実に見えなくなっているのかもしれない。
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テレビ番組『水曜日のダウンタウン』で
「水族館の水槽 ウニの代わりに栗が入っていても気付かない説」
が検証されていた。
水族館内に展示されているウニを水槽から取り出し栗と入れ替え、水族館の開館から閉館までの8時間で栗だと気づかれなければ説立証とする。
何気なくご飯を食べながら見ていたのだが、この説の結末には思わずはっとさせられた。
「あ、栗だ!」
栗に気付いたのは子どもだけだった。
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大学生の頃、初めて便箋7枚ものブログのファンレターをもらった時のことを今でもよく覚えています。自分の文章が誰かの世界を救ったのかととても嬉しかった。その原体験で今もやらせてもらっています。 "優しくて易しい社会科学"を目指して、感動しながら学べるものを作っていきたいです。