読書は、盆踊りだ!
「読書は、盆踊りだ!」
突然何なんだ?と思われたかもしれないが、読書と盆踊りはどこか似ていると、私は最近思っている。
我々は読書によって、今は亡き人々の考えや気持ちを知ることができる。作品を通して、生きていた時の作者の心の動き、身体の感覚を追体験もできる。
一方、盆踊りは、お盆に迎えたご先祖や故人の霊を元の世界に送り出す儀式の意味合いもある。生者は死者とともに踊り、ひと時を楽しんで過ごす。《お迎えして共に過ごし、また送り出す》これは本もそうではないか。
だから、読書と盆踊り、この二つはやっぱりどこか似ていると思う。少々無理なこじつけの気もするが、ドンドン!ピーヒャララ!太鼓と笛の音に乗って踊る様に、この文章を書いていく。まずは気合い一声、こう叫んで。
「読書は、盆踊りだ!」
文章は作者によって、固有のリズムや節がある。詩や物語は特にそうだ。読むことは、そのリズムや節に合わせて、心や頭の中で踊ることでもあると思う。また、歌うことでもあると思う。
中原中也は自身の詩を「歌」と言っていた。宮沢賢治の詩や物語にも、歌や音楽は重要な要素だ。中也も賢治もとても音楽的で、生き生きとした面白い言葉の響きが作品の随所に見られる。彼らの心や身体の躍動が伝わってくる。
坂口安吾は『すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌ふ」ものである』と書いていた。『ピエロ伝道者』という随筆に。安吾の作品も実に生き生きと、ハチャメチャかつ真摯に歌い踊っている。この言葉の中の「歌ふ」は「踊る」に置き換えても良いと思う。
詩や物語は、その作品が内包するリズムや節によって、読者の心や頭の中に様々なモーション、イメージを生み出す。読者は作品世界の中で想像上の身体を動かす。手足を動かす。ステップを踏む。
詩や物語は、読者によって全然違う解釈があったり、共通する解釈もある。どちらもあるから作品の感想を話し合うのは面白い。詩や物語を読むという踊りは、とても自由だ。読者一人ひとりの感性や想像力に大きく委ねられている。一途がほとばしっていれば、どんな踊りもきっと素敵だ。
中原中也の詩『盲目の秋』に以下の言葉がある。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
この「腕を振る」というのも、どこか踊りのように思う。「無限の前」というのは、抽象的でうまく捉えられないが、遥か彼方に向かって、中也がその手や腕を振っているモーションが見える。中也の詩はどうもレクイエムの気配がある。
さて、「読書は、盆踊りだ!」という私の考えは、まあまあ伝わっただろうか?ここまで書いてきて、結論的に思ったことがある。
盆踊りは、死者たちへの鎮魂の儀式であるが、何より生きている人々が思いっきり楽しむためのものだ。結局のところ、生きている人々が踊りの中で生を実感し、鮮烈なエネルギーを得て、元気を出してやって行くためにある。
詩や物語もそういうものだと思う。生きている人々が大いに楽しむためにある。作者が生き生きした感情のほとばしりを刻んだような作品は、読者にもその躍動を伝える。詩や物語は、歌や踊りと同じくライブなものだと私は考えている。心いっぱい読み、歌い踊れば良いと思う。
生きている人々が元気に笑って日々を過ごしていくこと、以前よりもっと充実した生活を送っていくこと、それを死者たちは喜んでくれる。そういう風に思って、今やその先の時間を生きていくのは良いことだろうと思う。私は今後そうしていこうと思う。ふとした時に、亡き人のなつかしい微笑みを胸に思い浮かべながら。
さて、私も元気にやっていかなきゃと思う。思えば何だか色々あって、意気消沈していた時期もあったが、今はそんなでもない。ここ最近、あれこれ小説や漫画、詩集を読んでいたら、だんだんとエネルギーが充填されたようだ。だから、様々な作品や作家に大きな感謝を込め、最後はまた盛大にこう叫んで、この文章を終えたい。
「読書は、盆踊りだ!」
※坂口安吾は随筆『ピエロ伝道者』で、以下のように書いている。とても好きな言葉だ。
『すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌ふ」ものである。その人その人の容器に順て(したがつて)、悲しさを歌ひ、苦しさを歌ひ、悦びを歌ひ、笑ひを歌ひ、無意味を歌ふ。それが一番芸術に必要なのだ。』
※坂口安吾は中原中也とも親交があり、一緒に酒も飲んでいた仲だ。また、安吾は宮沢賢治がとても気に入っていたようで、強いシンパシーを抱いていたと思う。『注文の多い料理店』の本を安吾は所有していた。また、中也は『春と修羅』を所有し愛読していた。詩作にもかなり影響を受けている。
※祖霊信仰は古代より、この島国の各地にあったものだと思う。先祖の霊を祀る感覚は、ある種の神への信仰より自然な信仰かなと思ったりする。しかし、霊や魂、スピリチュアルみたいな考えを私は極力持たないことにしている。でも実は、幽霊らしきものを一度見たことはあるから、霊の存在を否定もしない。けれど、霊魂の存在を信じているわけでもない。世の中、魔訶不思議なことは色々あると思うが。
※「読書は、盆踊りだ!」はそんなに外れた論ではないなと自分でも思う。芸術全般は、盆踊りかもしれない。そうすると「芸術は、盆踊りだ!」と岡本太郎みたいになっちゃうが、絵画を描くことも見ることも盆踊りに思える。岡本太郎の作品はお祭り感があった。お祭りも爆発しているものだ。
※ 《お迎えして共に過ごし、また送り出す》これは本もそうではないか、と私は書いたが、本を読み終わるということは、その作者を送り出すことのように思える。同じ作品を再読することは、再び迎えて共に過ごし、また送り出すことのように思う。毎年、会ってはまた別れる、切ないことだが、二度と会えないということより、まだ希望がある。亡き人とまた会いたいという願いが、お盆の風習や儀礼を生んだのだろう。人の切なる願いが文化や芸術の起源であり、基底だと私は思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?