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書を捨てよ、木を見よう、書を拾おう


最近、また本が読めるようになってきた。
図書館に通っては、読みたかった本をたくさん借りて、読んで、返して、また借りる。
この幸福な時期を逃すわけにはいかない。

本が読めない時期は、一行も読めない。
文章が意味のないカタマリに思えてくる。
文字と文字の間の、ほんのわずかな距離さえ遠く思えて、眼球が動いていかず、固まる。

長編小説なんてもう一生読めないのではと本気で絶望する。では軽めのエッセイでも読もうかと、食についての短編集を手にとってみるが、もう出だしでつまずいて、肝心の食事まで辿り着かない。


予約してやっと手元に届いた本でさえ、体が拒絶してしまう。ページを開くことも億劫になる。読みたい本が読めないというのは本当につらい。
そして本に対して申し訳なくなる。借りてごめん、買ってごめん、読めないのに…という気持ちでいっぱいになる。

読めないまま放置した本はもちろん何にも言わないが、常に無言のプレッシャーを放っている。

図書館の本ならば返却期限があるので返せばよいが、買った本はずっと部屋にいるのでつらい。
その状態が長く続くと、部屋に来た時は新鮮に思えた本も、やがて見慣れて目にも留まらない。
レジへ持って行った時のトキメキも忘れ、倦怠期のカップルのような冷めた関係になる。

本が自分からこの部屋を出ていってくれる訳もなく、私が出ていく訳にもいかないので、そっと本棚の奥にしまって極力見ないようにする。もうここまでくると、なんのために買ったのかわからない。

本が読めない時の過ごし方

べつに本を読まなくても生きていけるのだから、無理して読まなくていい。こういう時は、生活に必要な文字が読めるだけで偉いと思ってやり過ごす。本が読めない理由の第15位くらいに「目が疲れるから」がランクインしているかもしれない。
それなら遠くの緑を眺めて、毛様体筋をゆるめよう。次の読書に備えて、視力回復。

書を捨てよ、木を見よう

そんな風に過ごしていると、無性に、まとまった文章が読みたくなる時が必ずくる。その時は人のブログを読んでみる。
普段見慣れている横書きだと読みやすくて、自信がつく。写真もたまに挟まっていると一休みできていい。長文を読むことへのリハビリになるのか、だんだんと本が読めそうな気になってくる。


つぎは、書店や図書館にいって、表紙や背表紙だけを眺める。ああ、この表紙かわいいとか、この人の新刊出たんだと思うだけにとどめる。思うだけ、というのが重要だ。ここで実際に買って(または借りて)結局読めなかったら、へこむから。

そして、家に帰って、ネットで本の目次を読んだり、実際に読んだひとの文章を読んでみる。
「面白そう、読みたい」から「あ、読めそう」という確信に変わったら、チャンス!

熱が冷めないうちに、その本を手に入れる。
ここまでくると、続けて他の本も読みたくなるのが経験上わかっている。前回、一行も読めずに図書館へ返した本たちも迎えに行く。

本が読める時期の読書は、ほんとうに楽しい。
前回断念した本と、この手元にあるのは同じ本なのか?と疑うくらい、スラスラと頭に入ってくる。
これは自分のために書かれた本なのか?と錯覚するくらい、没入できる。 

やっと読めた本。リルケありがとう。


安定して本と向き合えるひとが羨ましい。たくさんの本が読める読書家に憧れる。複数の本を並行して読める人の頭は一体どうなってるんだ。読書と恋愛は似てるってほんとうですか。

でも、読めない時期があるからこそ、読書の幸せを噛み締めることができるんだよと小さく吠えてみる。

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