見出し画像

ドキュメンタリーは言葉を解体する

「戦ふ兵隊」というドキュメンタリー映画を見た。写真はこれを撮ったカメラマン三木茂氏。


ドキュメンタリーが今の人の興味をそそらないのは、みんなドキュメンタリーが「客観的な事実の追求」だと思っているからだと思う。

見ても絵は楽しくないし、音も楽しくないし、情報を得るだけじゃないか、と。


実際そういうドキュメンタリーが多いんだろう。でも今日初めてドキュメンタリーの「超主観的な美の追求」を見たら面白くてたまらなかった。

ドキュメンタリーは情報量<描写量なのかもしれない。


「戦ふ兵隊」は日中戦争の現場を撮影したもの。

中国の広大な土地を日本軍について回って撮影している。情報量で言ったら別にどうってことない。奇跡的な瞬間とか、希少価値のある時間を記録しているわけでもない。

「戦う兵隊」は戦う様子を映さず、飛行機の激しい風に揺らされる草を写す。

銃声の響く中、とにかくその土地を撮る。

またある時は、日本兵が車で川を越えようと必死になっている様子が映される。

日本兵に焼かれた街で生活を始めようとする中国人が映される。

この作品には主人公がいない。誰の物語も語らない。ただひたすら戦争を主人公にしている。

戦争を複雑なありのままの姿で受け入れようとする姿勢があった。


その目を通して見ると、戦争という大きなものが解体されて、あらゆる側面が見えてくる。自分の中で戦争という言葉が一旦解体され、もう一度積まれていく感じ。自分がもし戦場に行ったら、、、ということが初めて想像できた。

監督の亀井文夫は、反戦映画と言われ投獄されたが、「これは極めて主観的な美の追求です」と言ったらしい。

自分はこの言葉が腑に落ちた。こんなにあれこれ豊かに想像できて、それによって自然と戦争が見えてくるようなドキュメンタリーは見たことがない。でもこのやり方、なんかどこか映画らしい。

こういうものがまだたくさんあるならどんどん見たい。
新たな金脈を見つけたような気持ちです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?