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【今でしょ!note#135】空き家増加の根本理由 (2/2)

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

地域課題の話をしていて、よくトピックに出てくる「空き家問題」。「人口減少もあって空き家が増えて問題になっていることに対して、うまく空き家を活用しましょう!」という表面的な話だけでなく、そもそも何故空き家が増えてきたのか、日本における住宅政策は諸外国と比べてどうなっているのか、という点の理解を深めておきたいという考えに至りました。

昨日から2回にわたり、空き家が増加してきた経緯について、まとめています。
ご興味ありましたら、ぜひ第一回からご覧いただければと思います。

今日は、日本の住宅政策に関する経緯に触れていきます。

戦後直後の住宅政策

現在は、ファミリー向け居住における賃貸住宅の供給が少なくなる構造になっており、新築建設及び新築需要が多いという話をしてきましたが、第二次世界大戦前は、全体の7〜8割の人は賃貸住宅に居住していました。

戦前の日本では、住宅問題は基本的に「貸し手と買い手」との関係で構成されていましたが、戦争中に強制的に家賃統制を行った経緯から政府関与が始まります。戦争中の生産力の課題という課題に対し、工場が都市部で新設されていきますが、そこに移動して働く人々を収容する住宅が不足していたため、国が住宅の直接供給を行うようになったからです。

その歪みに対応するため、強い「借り手保護」を行ったことが、戦後の住宅政策に大きな影響を与える遺産として残った結果、貸し手の取引費用が大きくなり、賃貸住宅が小規模なものしか供給されにくくなり、住宅供給における政府の役割が大きくなっていきました。

戦後日本の住宅政策の出発点は、激しい住宅不足にどのように対応するかという問題への対策です。戦争で焼け野原になり、また大日本帝国として領土主張していた台湾、朝鮮半島、満州国を含む土地から引き上げてきた人たちも約600万人に上っていたからです。

戦後のベビーブームで1年に約270万人が生まれてくる時代でもあったことも、とにかく政府が公営住宅をドンドン作って供給することの背景にあると考えられます。

政府が公営住宅を提供しつつ、住宅金融公庫を通じた融資をして持家を拡大させていきます。1955年になっても、まだ270万戸の住宅が不足しており、特に人口が増加する大都市で深刻でした。1950年代に設立された日本住宅公団は、短期間で大量の住宅を供給するため、団地と呼ばれる大規模な宅地開発を行うようになります。

設立当初は500戸程度の住宅から構成された団地ですが、次第に「ニュータウン」と呼ばれる巨大事業を行います。先駆けは、1960年に着手された「千里ニュータウン」で、公団住宅だけで一万戸、公営住宅などを含めると四万戸近い大規模なものでした。
鉄とコンクリート作りの西洋風で、当時非常に人気が高く、何十倍の倍率の抽選で入居者を決めていました。千里ニュータウンは、後の団地のモデルになっていきます。

ニュータウンは、周辺の鉄道やバスなどの公共交通を整備する必要があり、必ずしも自治体に歓迎されたわけではありません。しかし、日本住宅公団は、政府目標をクリアするため、都市から少し離れた場所にニュータウン建設せざるを得ない状況にありました。
結果として1960年代後半には、総住宅数が総世帯数を超えます。その後も総世帯数は増加し続けますが、それを超えて総住宅数は増加し続け、昨日触れた通り、2013年には空き家数800万戸を超えるところまで来たのです。

高度成長以降の小規模住宅トレンド

住宅需要を考えるときに無視できないのは、高度経済成長期以降の人口移動要因です。

大都市住宅が不足する中で、所得水準が低い若年の流入者に向け、大量に狭い住宅が供給されました。人々の所得が徐々に伸びることで、1970年代を通じて風呂トイレを共用する住宅から、単身世帯向けに特定化されていきますが、一人当たりの住宅規模が大きくはなりませんでした。
こうして若年の都市流入者は、都市近郊の小規模住宅を借りるというライフスタイルが定着していきます。1980年代半ばからは、ワンルームマンションブームと呼ばれる単身世帯用の集合住宅建設ラッシュに入り、とりわけ小さい30平方メートル以下の賃貸住宅が激増します。

90年代以降は、少子高齢化の原因ともなる未婚化の進行とともに単身世帯が増えていき、1985年には680万程度の単身世帯が、2010年には1,200万を超え、全世帯の4分の1を占めるようになりました。

1980年代後半には、バブル経済による景気の加熱で、地価と住宅費用が高騰し、ドーナツ化現象が発生しますが、1990年代後半以降、大都市において都心回帰の動きが始まります。
背景にはバブル崩壊による土地価格の低下、住宅ローン金利の低下があります。

2000年代前半まで、東京都心部、京阪神、福岡などで建設が進んだ専有面積30〜50平方メートルのコンパクトマンションは、主に単身女性をターゲットにしたもので、少子化・未婚化の新たなライフスタイルを取り込んだものです。

その後、2000年代以降の規制緩和により、より大規模なタワマンのような超高層マンションが、工業用地として使われていた臨海地域に数多く建設されます。
タワマン建設は、2000年代に入り急増し2007年にピークを迎えていますが、中古住宅市場に出ても値崩れしにくいから人気です。

公営賃貸住宅から持家依存への変化

上述した通り、1950年代後半からの高度成長初期は、利便性の高い地域で良質の公営住宅が増大していましたが、高度成長末期には、利便性が高い地域に公営住宅を建設するのが困難となり、都心から離れたところに、中間層にとって魅力の乏しい住宅が建設されるようになりました。建設数も、1970年代前半から一気に減少に転じています。

さらに、高度成長期における所得水準上昇に関わらず、入居の基準収入額がそれに見合う形で引き上げられなかったため、入居者が次第に所得の低い層に限定されていきます。
結果、公営住宅が再分配的な色彩を強め、財政負担を嫌う地方自治体は公営住宅供給を回避するようになりました。
2000年以降の公営住宅は、ほぼ建て替えのみで、新規建設はほとんどありません。

多くの人々は、1990年代以降の低金利を利用して持家取得するようになり、公的な賃貸住宅は下火になっていきます。低金利の時代に、現在につながる市場を通じた持家取得依存が強まったのです。

コンパクトシティの難しさ

1970年代以降、三大都市では人口が増えても住宅地域はそれほど増えていませんが、三大都市以外の地域では、人口減少しているのに住宅地域が増えています。

住宅地域を制限しようとする動きとしてはコンパクトシティ政策があり、青森市、富山市が有名です。
ともに冬季の除雪費用が財政を圧迫し、なるべく居住範囲を狭めて費用の削減につなげることが重要な課題でした。

富山市では、都市機能の集約と公共交通による接続を目標として掲げ、公益機能を持った複合施設を建設したほか、中心部の住宅購入に補助金、新しい交通システムとしてライトレール導入など、中心部への居住誘導を進めてきました。

しかし、両市ともに郊外居住者が減っているわけではありません。比較的成功していると言われる富山市でも、従来からの富山市中心よりも、合併して富山市に加わった郊外地域(旧婦中町)の人口増加傾向が強いです。

コンパクトシティ政策の難しさは、都市の中心市街地の再活性化を試みても、郊外地域から人が移動するわけではないということです。

物理的にコンパクトにするには、より地価が高い中心部に移動する必要があるため、郊外地域に住む人はそのまま残ります。結果として、再開発が進められる中心市街地と、依然として開発を止められない郊外地域で新たに人口を奪い合うという構図が生まれやすいのです。

本当に人を動かすならば、政府補助で中心市街地に安い公営住宅を作るなど、郊外地域に住む人々に積極的に補助して移住促進することが検討されるべきですが、その膨大な費用を誰が負担すべきかで争いが生じます。

結局、空き家のような負の資産を解消するのは容易でなく、すでに存在している資産と向き合いながら、その利用と廃棄を丁寧に考えていくしかありません。
住んでいる人を移動させることは困難で、一度拡大した都市を縮小させていくことは極めて難しいです。

一方で、広域に最低限の生活インフラを供給し続けることはいよいよ無理なので、中長期的には、人々が便利な生活を求めて自然に中心地に集まってくると考えています。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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