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#278 大原孫三郎に学ぶ!人生経営 「人は経験した範囲のことでしか思考できない」

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

先日まで家族で1週間の倉敷&高松子連れ旅行に行ってまして、念願の大原美術館に足を運ぶことができました!

せっかく行くなら最低限の事前知識は抑えておいた方が、当日の感度が高まっているはず、と考えて読んだ本が「わしの眼は十年先が見える」です。

大原孫三郎は、明治時代の1880年から昭和に入り太平洋戦争中の1943年まで生きた人で、父親で大原家六代目の孝四郎から受け継いだ倉敷紡績(現:クラボウ)の社長を務めて、地方の一紡績会社に過ぎなかった会社を日本で指折りの大会社に成長させた人物です。他にも、人造絹糸レーヨンの事業化を目的として倉敷絹織(現:クラレ)を設立し社長として軌道に乗せたり、資金調達力を強めるために、当時の倉敷銀行など6行をまとめて第一合同銀行(現:中国銀行)を設立し頭取を務めたり、工場の運転には電気が必要だから、と中国水力電気会社(現:中国電力)の創立に関わり社長を務めたりと、実に多くの事業を牽引しました。

社会・文化事業にも熱心で、病院らしくない病院を作りたいと倉紡中央病院(現:倉敷中央病院)の設立、児島虎次郎の熱烈なオファーに応える形で、日本の芸術文化成熟の一助となった大原美術館の設立、貧乏をどう防ぐか、を扱う民間研究機関としての大原社会問題研究所(現:法政大学大原社会問題研究所)、農業改良に対する課題感から設立した大原農業研究所(現:岡山大学資源植物科学研究所)など、事業で築いた富を公共事業投資に散じた、関西最大の実業家とも言われています。

もちろん、元々大原家が地元の大地主で、巨大な富があったからこそできている部分もあるのですが、私が特に興味を持ったのは、どういう思考回路で大原孫三郎はこれだけの事業に手を付けたいと思うに至ったのか?という背景です。

詳細な経緯は、冒頭にご紹介した本を読めば分かるので、興味がある方はぜひ手に取ってみられて欲しいのですが、私なりに感じた点をまとめていきたいと思います。

大原家の思想からの影響

大地主の家系として築いてきた富をなぜ孫三郎はこれだけ投資に回していたのか?という点については、大原家六代目にあたる父親孝四郎のやり方を小さな頃から見ていたことに大きく影響されていることが分かります。

大原孝四郎のときから、同郷の「これは」と未来を期待できる若者に対して、奨学金を出していました。そのうちの一人が、大原美術館設立のきっかけを作った児島虎次郎です。虎次郎は、画家としての才能だけでなく、素朴で真面目な人柄を買われ、大原家の支援を受けて、ヨーロッパに5年留学することになりました。

その後も、孫三郎からの支援を受けて、朝鮮やヨーロッパ留学を繰り返すのですが、様々な世界を見て受けた影響が彼の作品にも顕著に表れています。大原美術館に行くと、このタイミングでこの国に行ったからこういうテイストの作品になっているとか、このタイミングから東洋と西洋が融合された作品になっているとか、このあたりの変化を楽しむことができます。

父親の別邸にかかった額に「可可園」(やる可し、大いにやる可し)と書かれているのを見て、初めの頃の孫三郎は地方で金持ちの子供扱いされるのが嫌だと東京に出るも、悪い友人が寄ってきて遊びのために多額を使い、高利貸から多額の借金を背負うなど誤った方向で大いにやってしまっているわけですが、その後借金返済のために精一杯動いてくれていた身内が亡くなってしまうなどして猛省し、倉敷で腰を据えて事業に集中するようになります。

先代の孝四郎が地元の若者に奨学金を出していたように、孫三郎も倉紡の社員や、研究所の研究員をヨーロッパに多く留学させ、派遣した人の目と話を通じて、西洋のことを学びます。
大原美術館も、児島虎次郎が帰国後あまり冴えない様子なのを見て、もう一度外を見てこい!ということで、再留学に行かせている間に、「日本にも作品を持ち帰って、日本の若い画家を刺激させてやりたい」という思いに応えた形で、設立されたものです。

虎次郎から「この絵を買っていいか?」と電報が送られてくるたびに「カエ」と指示を出し、今で言うと一度の電報で5億円程度の送金を繰り返していたとのこと。
まさに「大いにやる可し」精神の体現でした。

父親時代からの考え方に触れ、孫三郎自身が色々と経験していく中で、事業で築いた富を研究所設立投資や若い人の支援に充てていたことが分かります。
現在、低金利時代で生き残るために、地域金融機関こそ地元の発展に貢献すべし、みたいな話がよく言われますが、100年以上前から地元の発展を支える事業のために、大地主が支援するみたいな構図があります。そしてそれは金銭的な支援に留まらず、事業ノウハウ教育とセットで、というところに、今の地域金融機関が学ぶものも多いのではないでしょうか。

石井十次の思想からの影響

若き孫三郎が東京で悪い友人に誘われて遊びまくり約1億円の借金を背負い、父親に倉敷に呼び戻されて謹慎処分を受けている間、石井十次を知り感銘を受けます。地元の先輩だった林源十郎を介して石井十次と繋がるようになるのですが、その後の倉紡経営において孫三郎が貫いた「人格主義」は、石井十次の活動の影響を大きく受けています。

石井十次は、岡山孤児院を設立した人物で、初めは自分の生活を切り詰めて数人の孤児を引き受けたのをきっかけにして、後には収容人数が一時期1,200人に達するなど、多くの児童受け入れを行いました。
石井は、病気の感染を防ぐためにも、施設の衛生面の整備であったり、児童の教育機会を作ったりする必要性を説き、孫三郎は石井からの求めに応じて、多額の投資をしていました。

孫三郎は、倉紡の経営において、社員の寄宿舎を改善したり、夏場の工場の暑さをできるだけ和らげる目的で壁に蔦を這わせたり、それまで当たり前だった工場の深夜勤務を廃止したり、ということに着手し、反対多数の役員会の意見をはねのけて実現していくわけですが、こうした人間を主軸においた経営手法は、石井十次の孤児院運営における考え方の影響を大いに受けています。

孫三郎は、技術や商売は人任せにして、自分は専ら男女工の生活、寄宿舎、貸屋、幼稚園、病室の設備に集中しました。「まずは人事支配人、人事技師長を置け。機会や原料より先に、人間の取り扱いを研究せよ」と強調し、冒頭に紹介した各種研究所の設立に取り組んでいます。

人は、経験した範囲のことでしか思考できない

結果だけ見ると、大原孫三郎に実力と金があったから、様々はことをやり遂げられたのだ、と考えてしまいがちです。もちろん先天的な胆力とかもあるとは思いますが、後天的に身を置いた環境、接した人からの影響を受けて、それが会社経営におけるスタイルや、公共事業投資に繋がっているのです。

逆に言えば、大原家の思想に触れていなければ、若い人の教育のために多額の投資をすることはなかったでしょうし、石井十次の近くで一緒に孤児院拡大に奮闘していなければ、「人格経営」を倉紡に持ち込むこともなかったでしょう。

そう考えると、改めて私たちがどこに身を置き、どのような人と付き合うことが大切なのか、ということが理解できます。
今の自分の考え方は、どうしてもこれまで出会ってきた価値観の中で養われたキャパシティが限界です。これを広げていくためには、興味の幅を広げ、これまで知らなかったものについて、自分ごとで取り組んでみる、これしかないと感じさせられます。


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林 裕也@30代民間企業の育児マネージャー
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