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【今でしょ!note#89】 自分の人生を生きているか

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

岡本太郎さんの「自分の中に毒を持て」。
そこには、岡本太郎さんの強烈な人生観が描かれていました。

でも「岡本太郎さんだけに適用する」人生観というわけでなく、あらゆる人が常に興奮と喜びを持って生きるための本質的なスタンスを考え直させてくれる、もの凄い良書です。

今日は、この本から私なりに感じた3つのキーワードについてお話します。

本当の意味で生きているか

無難な道をとり、みんなと同じような動作をすること。
世間知に従って、世の中の抵抗なく生きながらえていくことが、あたかも美徳であるように思われていますが、そんなのは本質的に「生きていない」のと同じだ、と指摘しています。

いきなり耳が痛すぎます。

私自身も、本当はこうしたいけど全体のバランスを見てできなかったことがありますし、みんなと違う選択肢を取ることを「怖い」と感じて、世の中で安心だと思われている選択肢を取ってきたほうだという自覚があります。

あるいは、「怖い」という感覚すら持たずに、そうするのが当たり前だからと無意識で選択してきたこともあります。
勉強したらある程度点数が取れたので、高校は地元の進学校に進み、進学校の中でもある程度は点が取れるほうだったので、県外の国立大学に進学しました。
そのまま、周囲が就活を始める頃に自分も就活し、新卒一括採用で東京の企業に就職しました。

勉強も嫌いではなかったし、中学・高校・大学生活は、いい友達にも恵まれ、その時々の時間は割と楽しんでいたので、それはそれで良かったという想いもあります。

一方で、自分なりに周囲のことに対して課題認識を持って、自分主導で動き続けてきたか?と問われると、結構ハテナです。
そもそも、そういう発想自体に至らなかった、というほうが適切かもしれません。

人生100年時代と呼ばれますが、内閣府の高齢社会白書によると、2019年時点の男性の平均健康寿命は72.68歳とあります。

つまり、健康で体力もあり、自分が何かをやりたいと思ったときに、身体に不自由を感じずにできる残り時間は、もっと前に終わりがあるということです。
私は現在36歳ですから、あと2倍生きたら72歳。すでに折り返し地点にいます。

これまでも、自分主導でやりたいと思ったことに対して、全力で体当たりしていく経験もしてきましたが、「本当の意味で生きているか」を自らに問いかけると、まだまだ足りていないというのが正直な感想です。

岡本太郎さんは、「いつも自分が未熟である前提で平気で生きること」が本当に生きることだと言っています。
自分が「未熟である」という認識は、生きる上で非常に重要な感覚です。
一定の領域でそれなりの有識者になってしまうと、つまらなく感じるようになり、新たな「未熟」な領域を求めるようになる。私の場合は、その繰り返しでした。

折り返し地点を超えた人生後半戦、自分主導で泥臭く体当たりし続けていきます。

無意味な分断

「本来は、若い時代、誰でも自由な考え方ができるが、日本の教育システムでは、欧米以上に若い人が甘やかされている」
岡本太郎さんは、こう指摘しています。

学生だ、子どもだと甘やかされているうちに、人生の勉強や、自分が本当に勉強したいということをあまり勉強しない。そんなことよりも、学生時代には、学生時代の形式的な勉強さえしていればよいというふうに考えられている。

人生のことは実社会に出てから学ぼうと考えているが、実社会に出ると、会社の事情に明るくて、上役、同僚、後輩との人間関係さえ適切に処理すれば事足りてしまう。

そんな状況だから、生き甲斐などを考えるのはバカみたいに感じるようになり、会社は忙しいし、夜帰ってくると疲れてしまって、型通りの人生にはまっていく。

私は、学生か社会人か、みたいなところに無意味な分断があるように感じています。

学生は学生で、同世代間のみで価値観を共有し、社会人になるというエントリーゲートがある。
社会に出ることは何となく怖いことだと感じている人も多く、社会に出てからは各組織の価値観の中で本当の自分を押し殺して給料をもらう。

学生は勉強をし、社会人は仕事をする。

この考え方が違っています。

学生であっても学校以外の世界で違う世代の人たちと何らかのプロジェクトに取り組んだほうが楽しいし、社会人であっても学び続けないといけない。

リスキリング=学び直し、という考え方は根本的に違っていて、生きるとは学ぶこと、生きているということは、本来学び続けることであるという考えです。
ここでの学びとは、机にむかって行う勉強ではなく、それぞれの年齢、ライフステージにおける変化、外部環境の変化に応じて、自分を変化させていくことです。

その意味で、本来連続的に生きているはずなのに、学生か社会人か、といった形式的なもので、学びのフェーズが一旦止まり、リスキリングとして再度学びのフェーズが始まるみたいなニュアンス自体に違和感があります。

業界という単位での、社会の分業化に対しても分断を感じています。

マクロな視点で見れば、社会を構成する様々な機能・役割がある程度グループ分けされていること自体は良いかと思います。
一方、個人視点で見たときに、それぞれの人が業界や企業という名の個室に入り、その狭い世界の中だけで、安定した間違いないのない生活を送ることが果たして生きていることなのか。

本来はもっと個人視点で、社会的な意味でグルーピングされた見えない壁に分断されずに、自分の興味本位で様々な産業・業界と接続面を持ちながら生きていくのが自然だと感じます。

不器用な素人のものが良い

最近では、大量生産の無機質な機械文明に嫌気がさした若者を中心に、手作りの良さ、ホンモノの良さにこだわる人が増えています。

一方で、それは職人や器用な人が作った精巧なものを指しているのであれば、それは違うという話をされています。

職人が作った精巧なものというのは、秘伝や秘法といったクローズドな聖域を作ることで素人を締め出しているため、距離感を感じます。

一方で、素人が不器用なりにも想いを込めて作ったもののほうが人間的で親近感が湧きます。

素人が玄人の真似をして、自分には到底及ばないということを知り、尻込みしてしまう。
みんながこうなってしまうと、上述したような各産業のサイロ化が進み、個人の興味本意で色々とやってみようとする自由な雰囲気が失われてしまいます。

誰も止めていないのに、勝手に「自分には無理だ」と諦めて、それまでの枠を超えたチャレンジをしない。そういう人が増えると、どうしても全体でも閉塞感が出てきてしまう。
せっかく便利な時代に生まれてきたのに、これではなんとも勿体無いですよね。

これまでは、ある特定の領域におけるプロとそうでないその他の素人、という二極化した社会構造でした。
インターネットがもたらした最大の恩恵は、プロと素人の二極の間にグラデーションをもたらしたことです。
個人がそれぞれの作品、仕事、生活等を発信できることになったことで、より共感できる自分好みのものにアクセスしやすくなりました。

「本当の意味で生きる」とは、各個人が下手であっても生活や仕事の中で、堂々と生き様を示すことだと考えます。

泥臭く、懸命に取り組んでいる姿勢が人を惹きつけます。
綺麗にやろう、上手くやろうとせずに、出来るところから地道にやっていきましょう。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
今日もお読みいただき、ありがとうございました!

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