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【今でしょ!note#42】 1960年代モデルを引きずる銀行業界

おはようございます。林でございます。

今日のテーマは「1960年代型モデルを引きずる銀行業界」です。

超低金利社会で、貸出金利と預金金利の利ザヤだけでは、銀行は稼げなくなってしまい、2021年の銀行法の改正もあり銀行が非金融ビジネスへの参画ができるようになった結果、銀行が地域商社、人材派遣業、システム販売などの事業にチャレンジしているのは、皆さんもよく見聞きする話かもしれません。

現在に繋がる業界や産業構造の背景を知ることで、現在社会で起きていることの断面だけでなく、より立体的に物事が見えて面白いということで、2年前くらいに読んだ本から紹介する形で、記事にしておきます。


戦後に一般化した銀行預金

かつて庶民は預金口座を持たず、持ち家もないため住宅ローンを借りることはありませんでした。銀行を訪れるのは、企業や資産家など、極めて限られた人たちやお金を送金する必要性が生じた人だけでした。

1945年、敗戦国として終戦を迎えた日本は、戦争でお金を使い果たし、実質的に破綻した状態から産業を回復させ、戦後復興を模索する必要がありました。
産業を復活させるには、企業活動を活性化させ、事業で利益を生んでいく仕組みが必要ですが、企業の投資活動の原資となる資金がありません。
そこで、戦後政府は国民に対して「頑張って預金すれば幸せな世の中になる」と啓蒙し、銀行は、戦後7,200万人から預金という形で集めたお金を元手にして、企業に融資活動を始めます。

これにより、庶民も預金口座を持つことが一般化します。
その後、高度成長が軌道に乗ってくる1960年前後からマイホームブームが到来し、住宅ローン相談が増えて、一気に銀行の営業店に人が押し寄せるようになります。
銀行窓口はベルトコンベアー式の流れ作業になり、人件費が膨らみました。

1979年のATMの登場は、銀行窓口業務の大幅な負担軽減とコスト削減をもたらします。当時、銀行間で預金金利には差がなく、手数料も一律的で競争が成立しなかったので、ATM処理速度が銀行間の差別化ポイントでした。

1960年代モデル:預金集めに奔走する銀行員

1960年代の高度経済成長では、1ドル360円の固定為替相場のもとで輸出が伸び続けます。国内では勤労者所得が増え続け個人消費が爆発的に伸び続ける中で、製造業などはフル回転の状況でした。

(この頃の様子は、過去記事にまとめてますので、こちらもご覧ください!)

生産拡大のプレッシャーの中、産業界では工場の新設・増設などの巨大な設備投資に拍車がかかる一方で、産業界の財務基盤は盤石でなく、設備投資には外部資金導入が不可欠となります。

日銀調査統計局の資金循環統計によると、1960年代は、法人企業部門は常に巨額の資金不足が生じる一方で、個人(家計)は、資金余剰状態となっていました。
そこで、銀行が個人部門の余剰資金を法人企業部門へと仲介する役割を担う事になります。

当時の銀行員は、全国一律の預金金利体系のもと、設備資金を渇望する産業界に資金供給する歯車として、全国の家計から余剰資金を集め回る仕事に駆られます。
特に、長期資金となる定期預金、積立預金には厳しいノルマが科されました。

これがいわゆる「1960年代モデル」で、1970年代も変わらず続きます。
銀行員は、来る日も来る日も家々を回り、預金集めに奔走します。
融資話は、資金不足の企業側から勝手に持ちかけられ、銀行員の預金ノルマは、企業の設備投資計画から積み上げた銀行全体の貸出計画に基づき設定されました。

1970年代〜 銀行ビジネスモデルの前提崩壊

1970年代は、日本経済にとって大きな節目のタイミングです。

1960年代に日本が先進国の仲間入りを果たし、経済力を高めたことに対し、海外から外圧という逆風が吹き荒れます。
真っ先に外圧のターゲットになったのが輸出産業です。

経済力に見合わない円安水準が不公平と見られ、円相場の実質的な切り上げが続き、円高が到来します。また、欧米先進国による総量ベースの輸入制限措置が取られ、生産拠点を欧米諸国に移転する動きが活発化します。

1970年代末には、金融自由化を求める外圧がかかり始めます。
預金金利と貸出金利は規制金利体系の中にあり、銀行が一定の利ザヤを確保できる状況にあり、外資の参入規制も高いハードルでした。
安定した利ザヤを確保できることで、銀行の収益力は高く、大手邦銀のプレゼンスは欧米市場でも高まっていました。

そこで預金金利の自由化が1979年から段階的に始まり、93年に定期預金、94年に普通預金など流動性預金金利も自由化されていきます。

また、法人企業部門の財務体質も変化します。
企業の資金不足は80年代になっても続きましたが、規模は次第に減少トレンドに入ります。94年には資金余剰に転じ、98年以降は一貫して資金余剰状態となりました。

この流れを受け、1970年代末から90年代にかけ、それまでの貸出金利と預金金利の利ざやで稼ぐ銀行ビジネスの根底部分が覆されていくことになるのです。

1980年代〜 ビジネスモデル転換を図る銀行

銀行のビジネスモデルはそれまでの預金獲得から、融資・ローン獲得へとシフトします。
リテール金融部門では、金利自由化により利ザヤが狭まった大企業取引に代わり、貸出金利の高い個人・中小零細向けローンに活路を見出します。「量から質の転換」「資金需要の創出」という言葉が生まれたのはこの頃です。

1980年代、従来は事務手続の煩雑さから避けられていた住宅ローンを主力商品化します。
それ以前は、銀行が出資して設立した住宅ローン専門会社が斡旋していましたが、住宅ローン収益性に魅力が高まり、またコンピュータによる事務自動化ができるようになってきたこともあり、銀行業界は住宅ローンビジネスに進行していきます。

なお、住宅ローン専門会社は、銀行の台頭により住宅ローン市場から締め出され、不動産担保ローンビジネスに傾斜していきますが、80年代後半に不動産バブル融資を膨張させ、バブル崩壊とともに不良債権の山を築き、各社は経営破綻していくことになりました。

1990年以降 不良債権処理に追われる銀行

これを契機に急速に深刻化したのが、1990年代の金融危機や北海道拓殖銀行、山一證券などの大手金融機関の経営破綻です。

金融危機を生き残れた銀行も長期的ビジョンを描く余裕がなくなり、旧式モデルをフル回転して少しでも多くの利益を生むしかなくなりました。
利益は、不良債権処理と公的資金返済原資に充てられ、2006年になりようやく3メガが公的資金を完済します。しかし、銀行が将来ビジョンを描けないという意味で時計の針が止まった20年超となり、欧米諸国から日本の銀行が大きくビハインドを取ることになりました。

活路を模索中の銀行

2023年現在においても、国内不振は、特にリテール分野です。
利ザヤで稼げない中、多くの人材配置による業務コストが高止まりしています。
大手グループでは、クレカ・消費者金融などの連結では収益を出しているものの、銀行単独では実質的に赤字体質が続いています。

これまで、変革に向けた議論が活発化された場面もありましたが、生み出されたのは本質的なモデルチェンジでなく、既存モデルの部分修正でした。
「抜本的改革により混乱が生じ、短期的に収益力が下がれば競争に負けるという反改革論のほうが強かった」と、メガでかつて経営企画を担当した役員は語ります。

中長期スパンの経営計画も、現状を起点として真っ直ぐ直線を右肩上がりに伸ばすビジョンに過ぎず、経営企画を策定する本部エリートにとって、その計画が実現できるよう貸出・預金・証券商品販売などの予測値を積み上げることこそが仕事になってしまっています。

なかなか次の一手が打てていない状況ではあるものの、既に曲がり角を迎え切った局面では、如何に自分たちを変質させて、行くべき先にどれだけ早く辿り着けるかが勝負になっています。
その意味では、この2020年代後半に変われる銀行にとっては大きな飛躍を遂げることができるはずで、チャンスが大きい業界であるとも感じます。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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