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【今でしょ!note#31】 明治から戦前の地方を学ぶ (1/4) 〜豊かだった明治日本の地方〜

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

久しぶりにマニアックな近現代史シリーズとなりますので、ご興味ある方はお付き合いください。

今日から4日間にわたる連載で、「明治から戦前の地方を学ぶ」シリーズをお届けします。
きっかけは、2年ほど前から地域活性化事業に興味を持ち色々と動く中で、全国の地域大学や自治体の方のお話を伺う機会を多く持ったことです。

色んな方と話をする中で、どのように現在の地方が形成されてきたのか、もう少し長い時間軸で現在を捉えた時に、人口減少や成長停滞が続く今の日本や地方の状態というのは特異なものなのか、あるいは単純に歴史の中で繰り返されてきただけのものなのか、ということをもっと知りたい!と感じました。

そこで、日本の地方自治制度の父と呼ばれている山縣有朋を中心にまとめられた「山縣有朋の挫折:誰がための地方自治改革」の内容をベースにして、現代の地方の成り立ちについて理解を深めていきたいと思います。

山縣有朋は何をした人か

山縣有朋は、伝統的なコミュニティを土台にしながら、西洋諸国のよいところを取り込んで明治の地方自治の基礎を作り上げました。本書では、地方自治の創設とその後の変質について取り上げられています。

変質の背景には、日清戦争後の臥薪嘗胆の時代に、日露戦争への備えとして地租増税という大増税を成し遂げたことがあります。日露戦争の軍事的な勝利の背景には、高橋是清の外債発行という財務的な裏付けがあったことがよく知られていますが、実は、山縣有朋による大増税という裏付けも大きいのです。
「外債発行がなければ、満州に派遣された陸軍の食糧・弾薬の補給はできなかったが、地租増税がなければ、ロシアのバルチック艦隊と互角に渡り合える海軍を組成できなかった」と言われています。

日露戦争におけるこの一件で、山縣有朋は国政治の第一人者となり、地方自治を見捨てざるを得なくなりました。その後の地方自治を担うことになった高橋是清は、農村部に財源を与えて自己再生を基本とした自治の充実を図ろうとしましたが、1923年の関東大震災により、その絵は大きく塗り替えられてしまうことになります。

関東大震災は、東京の人口が335万人だった時代に、東京・横浜で340万人が罹災し、10万5000人が死亡・行方不明になった震災です。
5年後の1928年に日本で初めて行われた普通選挙では、地方分権が大きな焦点となりますが、震災後の経済的な困難の中では、地方自治の大きな発展は困難な状況でした。その後、第二次世界大戦が勃発し、未完のままに終戦を迎えることになったのが、山縣が創り上げた「明治の地方自治」となります。

明治時代の地方自治

1868年から始まった明治政府は、中央に国家としての最低限の形を作り上げるのに手一杯で、地方行政にはほぼノータッチでした。そのため、江戸時代以来の自治のあり方がそのままの状態で引き継がれます。
(江戸時代の終焉と明治時代の始まりの様子は、大河ドラマの「西郷どん」を見ると、よりリアリティを持って理解できます。少し長いですがとても面白いので、ご興味ある方はご覧になってみてください!)

江戸幕府は軍事政権なので、軍事と外交(幕府と藩の関係)以外のことは、住民自治を基盤とした分権的なものでした。その後、昭和の時代になっても地方では無給の職員が7割占めています。今で言うと、ボランティアが無給で町内会の役員になって地域行政を担っているようなイメージです。

明治の自治における町村選挙では、「出たい人より出したい人を」ということで、地域のリーダーは周囲の人が選び、基本的に選ばれたら断れない(断ると公民権停止や市町村税増税)という仕組みでした。
第一回東京府会選挙では、福沢諭吉や大倉喜八郎などが当選して活躍します。
当制度は、小規模コミュニティでは機能しましたが、1925年に男子普通選挙が導入され、選挙人が拡大すると建前に過ぎなくなっていきます。

また、選挙はもともと、納税者の権利でした。今日の株主総会での議決権行使が、株主の権利というのと同じ感覚です。
1925年の男子普通選挙の導入により、選挙は納税者の権利ではなく、国民の権利となり、投票は権利であるという国民の感覚を薄れさせました

選ばれた町村議会議員に給料を払わない仕組みである「名誉職制」は、ドイツの制度に倣ってつくられたものです。地方公務員47万人のうち7割にあたる34万人余が名誉職でした。
今日、名誉職制が完全に忘れ去られているのは、市町村における地域の業務よりも、国から下りてくる業務のほうが多くなったからでしょう。国の仕事をなぜボランタリーにやらないとダメなのか、ということになりました。

明治維新期には、地方が強い経済力と財政力を持ちますが、これは当時の基幹産業が農業だったことによります。
1890年に第一回帝国議会議員選挙が行われますが、有権者数(直接国税15円以上の納税者)は、東京より新潟のほうがはるかに多かったのです。
そもそも明治維新が実現したのも、薩摩・長州が強い経済力を持っていたからでしょう。日清戦争後の起業ブームの中で、多くの銀行が地方で設立されたことも当時の地方の経済力の強さを示しています。1893年に762行だった銀行数は、1901年には2334行にまで増加しました。

地方からの財源の吸い上げ

廃藩置県

1871年(明治4年)7月、廃藩置県が行われます。全国3000万石の貢納権を明治政府に集中させる大改革が、藩側の大きな抵抗なく行われた背景には、当時の藩の苦しい財政状況がありました。
明治維新後、多くの藩が財政的困難から、藩士に家禄を払い、藩主に大名らしい暮らしをさせることに困難を感じており、自発的に廃藩を請う藩もありました。

廃藩置県後、明治政府は府県の財政をコントロールする制度を徐々に整えていきましたが、新たに吸い上げた財源で地方の面倒を見るということはありませんでした。文明開化の旗印のもと、全国的な行政水準の向上を目指して衛生や教育などの面で様々な施策が導入されますが、それらの費用は地元負担でした。それを当然のように受け入れられた背景には、当時の地方の強い財政力があります。

地租改正

1873年(明治6年)から行われた地租改正は、政府の財源をそれまでの農民からの米によるものから、土地の地券を交付して所有権を認め、収穫高ではなく地価に応じた租税とすることで、国庫収入安定を図ったものです。
茨城県や三重県で激しい農民騒動が起きながらも強行した背景には、国の財政が困窮し、国より地方のほうが豊かだと認識されていたためです。地租改正は、国の大増税施策であり、国の地租収入は、明治5年の2,005万円から明治6年の5,060万円へと倍以上となりました。

国から府県・町村に対する補助

府県の事業に対する国の経費負担は、当初警察費補助から始まります。
これは、警察が国家機能そのものと考えられたためです。明治政府が警察費以外にもそれなりの補助を行うようになったのは、明治6年の地租改正で財政基盤を確立したあとの話で、府県庁舎の新設、府県の広域土木工事費への補助の仕組みが整備されていきました。

府県に対する補助がそれなりに行われるようになってからも、町村に対する補助は極めて限られています。
1911年(明治44年)度の国から府県への国庫交付金は、府県歳入の2.7%(309万円)、補助金は6.4%(743万円)に対して、国から町村への国庫交付金は町村歳入の0.92%(120万円)、補助金は0.064%(8.4万円)に過ぎません。
府県から町村への府県町村交付金も町村歳入の0.71%(92万円)、府県から町村への補助金も3.84%(501万円)とかなり限定的だったのが分かります。

今回は、明治時代における地方自治の概観と、国の形を形成するために、地方から国へと財源が吸い上げられていく流れについてご紹介しました。

次回は、明治維新の主役とも言える大久保利通が目指した地方自治の考え方、民間主体の殖産興業について解説していきます。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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