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【今でしょ!note#33】 明治から戦前の地方を学ぶ (3/4) 〜国も地方も大増税時代〜

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

全4回シリーズでお届けしている「明治から戦前の地方を学ぶ」の第三話です。
今日も、日本の地方自治の父と呼ばれる山縣有朋を取り上げた「山縣有朋の挫折」をベースにして、明治時代後半の地方自治について、触れていきます。


山縣有朋の地方自治

不利な条約を是正するための近代的な地方自治の導入

山縣が地方自治担当の内務卿に就任したのは、明治16年(1883年)のことです。
大久保利通同様、江戸の自治を尊重しながら、大久保が手を触れなかった町村にも欧米の制度にならった地方自治制度を導入しました。大久保がフランスに倣ったのに対して、山縣はプロイセンの制度に倣っています。

江戸時代に締結した日米修好通商条約で押しつけられた5%という関税率は、当時の英国や米国と比べて非常に低く、日本の殖産興業政策は極めて大きな制約を受けていました。
自由貿易と言われていた英国でも、工業製品に平均40〜50%の関税をかけて国内産業を保護していました。英国では歳入の26%、米国では大部分が関税収入という中、日本はの関税収入は租税収入の7%にとどまっています。

条約改正して関税収入を増やせれば、明治6年の地租改正のような大増税も不要でした。そして条約改正のためには、明治16年からの鹿鳴館外交・近代建物・舞踏などの見かけの近代化でなく、近代国家としての法体系を整備し、西欧諸国に実質的にも近代国家であることを示すことが急務であり、地方自治も欧米流の制度にすることが求められた背景があります。

山縣は、ドイツ人法律顧問のアルバートモッセの考え方に共感し、「大久保が導入した三新法では府県会改革を先走ったため内治安定をもたらせなかったが、町村会から府県会へと段階的に地方自治を任せることで内治安定を図ることができ、国会開設にも至る」と考えます。

これは、当時の欧州の地方自治制度改革の最先端の流れを踏まえたものでした。
モッセは、欧州の地方自治制度を比較し、英国では政府と地方自治が関与せず、フランスでは政府の統制が地方自治と相対立して混乱しているのに対し、ドイツでは君主制のもとに憲政上の一般の施政と地方自治が常に調和していると分析し、ドイツの制度を推薦します。

このように日本では、不利な条約改正のために近代的な地方自治制度を導入するとの目的のもと、全国画一の地方自治制度が導入され、その仕組みが戦後は憲法にまで規定されて受け継がれました。
なお、ドイツでは今日でも市町村(ゲマインデ)により、参事会制や評議会制といった多様な地方自治制度が取られています。

市町村制の設立

国の条約改正や立憲制の確立という、町村からすれば与り知らない政策課題解決のために、西欧流の制度が町村に導入されるのは迷惑以外の何者でもなく、元老院や地方官会議でも町村財政の乏しさを理由に反対されます。

これに対して、町村の財政基盤確立のために大規模な町村合併が断交されることになり、明治21年(1888年)末に7万1314あった町村は、翌22年末には1万5820町村と5分の1になりました。この時に市町村制が導入され、現在135年目を迎えています。

市町村制のもとで、市町村の事務を必要事務と随意事務に分け、必要事務は国が市町村にその執行を命ずることができるようにし、国そのものの事務は、機関委任事務として市町村に執行させることにしました。

機関委任事務制度は、国と地方の事務分担が明確なドイツやフランスでは今日も用いられています。一方日本では、国も県も市町村も総合行政機関という考え方が一般化し、地方の事務なのに国からあれこれ指図されることが問題視され、2000年の地方分権一括法制定時に廃止されています。

日清戦争を契機とする近代的自治体

「上からの自治」

府県制導入4年後の明治27年(1894年)に勃発した日清戦争での勝利は、政府への国民の信頼を著しく高め、市町村には政府が推し進める近代国家建設の第一線としての役割が強く求められるようになっていきます。

その中で、江戸の自治には見られなかった、上からの自治の仕組みが確立された点について、衛生行政を例に取り見てみます。

江戸の町は、肥料としての人糞のリサイクルシステムを完備していたため、世界的にも衛生的な都市で、人口100万を抱えながら、高温多湿な夏でも疫病が流行することはありませんでした。
ところが、ペリーの黒船がもたらした開国は、世界中の疫病を日本に持ち込むことになります。1858年には、ペリー艦隊がもたらしたコレラが国内で大流行し、28,000人もの死者が出ました。

組織的な衛生行政の確立

明治政府は、伝染病対策を中心として、近代的な衛生行政の普及に努めますが、その直接的な担い手は地方でした。
明治10年に西南戦争を契機としてコレラが大流行したことを受け、中央には「中央衛生会」が、地方には「地方衛生会」が設置されます。

日清戦争後の明治28年〜30年にかけては、コレラをはじめとして赤痢、腸チフス、天然痘が大流行して多数の死者を出し、明治30年には伝染病予防法が制定されて全国的な取り組みが強化、府県が経費の一部を負担することが義務付けられました。

大正7年からは第一次世界大戦を背景に、全国の3分の1に当たる2380万人が罹患し、死者38万人を出したスペイン風邪が大流行します。
そのような中で内務省地方局にあった救護課が局に昇格し、その後昭和13年には厚生省が設置されました。このような流れの中で、組織的にも、近代的な衛生行政を行う体制が確立されたのです。

臥薪嘗胆の時代

国も地方も大増税時代

日清戦争後、ドイツ、フランス、ロシアから三国干渉を受けた日本は、臥薪嘗胆の時代に入っていきます。三国干渉は、幕末に坂本龍馬が万国公法に対して抱いていたような国際法に対する信頼を、力に対する信頼に取って代わらせた大事件でした。
それ以降、日本は本格的に富国強兵策に取り組むようになり、国も地方も大増税という時代に入っていきます。

三国干渉から3ヶ月後の明治28年(1895年)7月には、政府は海軍力を強化すべく英国に主力艦4隻を発注します。陸軍の将兵数も明治27年には12万3000人だったのが、日露戦争時には90万人が動員されました。
そのような軍備増強には当然金がかかり、日本の軍事費は日清戦争前の2300万円(歳出の27%程度)から明治30年には1億1000万円(歳出の約50%)へと急上昇し、そのための財政資金の捻出は、地方と国の大増税で賄われたのです。

追い込まれる地方財政

地方の大増税をもたらした要因は、国が地方から財源を吸い上げたことです。
具体的には、収入の確実な財源として府県税の中心であった営業税・雑種税が国税に移管されました。
衛生行政以外の分野でも、広範に近代国家建設のための新たな業務執行が地方に求められるようになったことも要因です。
河川法、砂防法、森林法、高等学校令、小学校令のような法整備が進められ、施策に要する費用は専ら地方の負担で賄われました。

また、国が軍事費を捻出するために行った歳出削減の一環で、地方に対する国の補助率が引き下げられます。これにより、地方における財源の深刻な不足がもたらされ、府県は地方税の増税で対応せざるを得ず、経済発展が著しい市も地方独立税を増税しました。地方財政規模は、日露戦争までの間にそれまでの約3倍になります。

明治100年を生きた老人たちは、この臥薪嘗胆の日露戦争時期は、第二次世界大戦や敗戦後と同じくらい苦しかった、と語っています。

それでは、今週も一週間お疲れさまでした。
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