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#254 笑えない日があるのが人生。毎日バッターボックスに立っている感覚で生きる

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

今日は、先日スタエフで話した話を深掘りしておこうと思います。

毎年7月になると思い出すのが、4年前に33歳という若さで、癌で亡くなった高校時代の友人のことです。
2020年7月のある夜、共通の友人から久しぶりに電話があって、その時は気付けずに翌朝に折り返したところ「友人が危篤状態で、今日1日も持たないかもしれない」という突然の話があり、そこから3時間後くらいに亡くなったと連絡がありました。

彼との関係性や当時感じたことは、過去にも文章にしたことがありますが、高校時代に一度も同じクラスにはならなかったものの、ほぼ毎日学校で会って、一緒にサッカーしたりした友人です。

私は一学年400人程度の高校に通っていましたが、学年で一番格好いいやつだと思っていました。見た目は若干ヤンチャではじめは怖かったですが、話すと凄く優しくて、その後大学は別々でしたが、半年に1回くらいは何かと連絡をとって会っていて、大学を卒業してからも、年に1回くらいは飲みに行ったり旅行に行ったりと、数少ない友人の一人でした。

私は友人が多くありませんから、学生時代からの友人で今もたまに連絡を取ったりする関係性の人って10人もいません。
そんな貴重な友人と、青天の霹靂で二度と物理的に会えなくなってしまったわけで、自分の人生の中では、かなり強烈な印象に残っているとともに、自分の人生に対する捉え方が一気に変わった瞬間でもありました。

彼は今も私の心の中で生き続けている感覚があり、何かあると思い出して自分の心を奮い立たせてくれます。
そんな友人を一人でも人生の中で持てたこと自体、感謝しかないですし、彼のことを思い出す機会を定期的に持つことが自分にとって勇気になります。

彼の死が私にもたらしてくれている「人生の時間」に対する考え方について、整理してみます。


今日自分が生きる1日は、彼が「どうしても生きたかった1日」

コロナ禍の外出制限真っ盛りの時期でしたが、彼のご家族が「ぜひ会えるなら会ってやってください」と言ってくれて、葬式やお通夜の前に、実家の福井県に搬送されたご遺体と対面することができました。

亡くなった友人の顔を目の前で見るのはその時が人生で初めてで、穏やかな表情というよりも「もっと生きたいぞ!」と叫んでいるような、そんな表情に見えました。

彼とは、確か2017年の秋くらいに、共通の友人と3人で富山旅行に行きました。
その時、既にガンと余命が宣告されていたそうですが、旅行中は全くそんな素振りを見せずに、いつもと同じ感じで一緒に露天風呂に入ったり、車で海岸沿いに行ったりしていました。

亡くなった後に彼のお母さんから聞いたのですが、私たちと旅行に行ったこともお母さんには話をしていたそうです。
そして、彼のおじいちゃんも過去に癌の診断を受けたことがあるそうなのですが、癌が治ったらしく、「俺も癌を治してやる!」ということもよくご家族に話をされていたとのことでした。
宣告された余命の日を迎えた時には、「ここまで生きてやったぞ!」ということをお母さんに報告していたと聞きました。そこからしばらく生き抜いていたわけですが、毎日1日が経過していくたびに「今日も1日生きてやったぞ!」ということを当時お付き合いしていた彼のパートナーや、ご家族に話していたと聞いています。

前の記事にも書いたのですが、彼は本当に好奇心旺盛で「ゆうじ(高校時代の私のあだ名)、次は映画が来るぞ」と言って、映画会社で勤務しようとしてみたり、「ゆうじ、公務員は熱いぞ」と言って、公務員試験に没頭したりしていました。
彼は生前、東京オリンピック関係の仕事をしていて、当時コロナで延期になったりして様々な調整にあたっていたそうですが、亡くなる1週間前まで普通に仕事をしていたそうです。

このように、とにかくやりたいことに溢れていて、「ゆうじ、次はこの業界が熱いぞ」と目を輝かせながら話していたのが印象的です。

私はこれまで、たまたま癌や大きな病気をすることなく、ここまで生きてこれているわけですが、自分がこれから生きようとしている1日は、彼がどうしても生きたかった1日です。

そんな1日を適当に過ごしてしまったり、誰のためになっているか分からない仕事のために消費してしまったりするのは、とても彼に頭が上がらない。彼のご遺体と対面した日から、そんな気持ちになりました。
適当に時間を過ごしていたり、弱っていたりすると「ゆうじ、しっかりしろよ!」と空から言われているような気がして、シャキン!とする感覚。明らかに時間に対する考え方が変わりました。

毎日バッターボックスに立っている感覚

そこから、日々バッターボックスに向かっているような感覚を持つようになりました。バッターボックスに向かう感覚を持ち始めて好転したのは、次の2点です。

他人の試合を見ている人生ではつまらない

まず1点目は、他人の試合をベンチから、あるいは、球場の外から見ているだけの人生ってつまらないなと感じていることです。

それまでも似たような感覚はあったと思いますが、そこがよりクリアに言語化できた感じです。

バッターボックスに立たないとヒットが打てないのは誰もが分かっていることですが、いざバッターボックスに立つのは勇気がいるように思えます。
そんな時は、誰も見ていない試合や、誰もいないバッティングセンターのバッターボックスを想像して、とにかくバッターボックスに立つハードルを下げて、何とか立つことを重視すると良いと思います。

自分でバットを握り、思い切りぶん回して見るからこそ分かることがある。
というか、人生におけるあらゆることが、他人の試合を見ているだけでは分からないことばかりで、とにかく自分でやらないと分からないことばかりです。

他人の試合を見て、「あいつはバットの振り方が悪い」とか口だけ動かしている人って格好悪いじゃないですか。自分でバッターボックスに立ち続けていると、バッターボックスに自分では立たないのに、ああだこうだ言う人のことが段々気にならなくなってきます。

とにかく、どんなに小さなことでも、「今自分はバッターボックスに立っている!」という感覚が大事だし、とにかくバッターボックスに立ち続けることが大事だと思います。

どんなに優秀選手でも3割当たれば万々歳

2点目の効果が、毎回ヒットが出なくて当然、と思えることです。
野球では、3割バッターでも優秀ですよね。7割はヒットを打っていないということです。

当然、バッターボックスに立ち続ける分、ヒットが打てない回数も増えてきます。
バッターボックスに立ち続けていないと、数回立ってみてヒットが打てずに落ち込んでしまって、そこで挑戦が止まってしまうのですが、これでは勿体無いですよね。
成功の数以上に失敗するのが当たり前だし、失敗の中で「次はもう少しバットを短く持ってみようか」とか考えながら試行錯誤することが大切。

私たち現役世代は、日々仕事や家庭のことで頑張ってギリギリのところで何とか今日も終わった!て感じで生きている人が多いと感じますが、「笑えない日があってもそんなもん」て思えるんですよね。10日に3日笑えることがあれば万々歳な訳で、7日は笑顔になれなくても、それが普通だと。

SNSはキラキラの最先端の超一部だけが切り取られて、そこだけラインナップされたものの集積体です。綺麗なダイヤモンドしかないディスプレイのように、毎日笑顔でないといけない、キラキラでないといけない、と思わされがちですが、当然ながらそんなことはない。

それよりも、誰も見ていないバッターボックスで、ひたすらバット大振りしてから回ったり、バントに手を出してみて失敗し続けてる人の方が、私は人間らしくて格好いいと感じます。

笑えない日があってもいいじゃないですか!
彼がどうしても生きたかった1日を、今日も泥臭く、懸命に生きてやろうと思います。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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