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【今でしょ!note#34】 明治から戦前の地方を学ぶ (4/4) 〜中央に吸収される地方〜

おはようございます。林でございます。

全4回シリーズでお届けしている「明治から戦前の地方を学ぶ」の最終回です。
今日も、日本の地方自治の父と呼ばれる山縣有朋を取り上げた書籍「山縣有朋の挫折」をベースにして、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の裏で変遷を経てきた地方自治について触れていきます。


山縣有朋の挫折

1895年に終わりを迎えた日清戦争後、対露軍備増強に必要な地租増税に取り組んだのは、まず伊藤博文、それに続いたのが松方正義です。
地租増税を果たすために、自由党(板垣退助総理)・進歩党(大隈重信党首)の大連立などを試みますが失敗し、地租増徴案は大差で否決されます。

その後、明治31年(1898年)からの山縣有朋内閣は、自由・進歩両党が結党した憲政党のリーダーであった星亨の理解を得て地租増徴を実現し、軍事・財政両面での日露戦争勝利の立役者となりました。
国政の第一人者となった山縣は、政党政治の堕落から今の立憲政治を守ることが第一の優先課題となり、地方自治の父としての姿を消すことになります。

伊藤博文の暗殺後、山縣に対抗しうる政治家として登場したのが原敬です。
自らの政党政治を確立するために取り組んだのが、山縣閥の牙城である群を廃止することでした。
原は、「群は自主財源の欠如から存在意義を示すに足るだけの業績を上げていない、自治活発化のために必要なのは町村合併で郡制は不要」との主張で群制廃止に乗り出し、後の大正12年(1923年)に郡制は廃止され、「群」は地理的名称に過ぎないものとなりました。

日露戦争後の地方財政

日露戦争は、戦争としては大勝利でしたが、財政的には負け戦でした。
国の予算が2億6000万円の時代に、日清戦争の戦費が2億1000万円だったのに対して、日露戦争の戦費は19億8400万円まで膨れていました。

明治維新期以来の成長により、もはや国より地方が豊かという時代は終わりを告げ、農村よりも都市が豊かという時代が到来します。
本来は、経済発展で財政力を高めた都市部に国が増税し、それを地方に回せば地方へのツケ回しは不要でしたが、そのためには日露戦争は財政的には負け戦であったことを国民に説明しなければならず、そんなことは誰にもできませんでした。

結果、政府は独りで財政面での負け戦の処理に立ち向かわなければならず、地方への緊縮財政のツケ回しをすることになります。

第一次世界対戦後の地方財政

地方における大増税

1914〜18年(大正3〜7年)の第一次世界大戦は、金本位制を破壊し、国際経済の混乱期をもたらし、日本の地方財政も混乱期に入ります。
農村と都市の経済力格差に本格的な取り組みがなされるようになったのは昭和以降の話で、大正期では、第一次世界大戦の積極財政のコスト負担のために農村部での大増税が行われました。

1932年(昭和7年)の地方財源の不均衡は、国税額に対する地方税額の比率を比較すると分かります。
全国一律の税率で徴収される直接国税額が、地域の基本的な財政力を表しているのに対し、それに対する地方税収額の比率は無理な増税がどの程度行われていたかを示しているためです。
東京で0.8、大阪で1.0の比率であったのに対し、岩手、青森、鳥取では4〜5倍の比率となっており、無理な地方税が課されていたことを示しています。

補助金行政に否定的な高橋是清

明治以降の経済発展の中で、日本が農業国から工業国に成長したといっても、工業製品の国際競争力はまだまだ弱く、貿易面では農業大国でした。
生糸をはじめとする農業関連産品が輸出を支えた姿は昭和にも続いており、1929年の世界大恐慌により生糸や綿織物の国際価格の暴落で大打撃を受けます。

繭の価格は第一次世界大戦の頃と比べ15分の1になり、都市部にも深刻な影響を与えました。失業した都市労働者が農村に帰らざるを得なくなり、農村の疲弊はさらに深刻化、餓死者も増えました。
財政力が疲弊した地方に対し、いよいよ地方への補助金交付が始まります。これにより、それまでの国と地方の関係が大きく変わることになります。
以降の戦時体制へ移行する過程で補助金行政は定着化されました。

高橋是清は、「地方自治には自力更生が大切」との理由で、補助金行政には否定的でした。
時局匡救事業(1932〜34年の景気回復を目的とする公共事業)の金ですら、地方に金を使えといったから、仕方なく仕事をする地方が随分とある。土地の人が自ら求めて行われるわけでなく、「鉄道を延長すると土地の者が喜ぶ」などと傍からこうしてくれたらよかろう、と思って行われる事業には、必ず間違いが起こるというわけです。
「泣きつけば政府はどうにかしてくれる」という考えを持ってしまっては、人に頼ってばかりの意気地のない国民が出てきてしまうと主張しています。

地方は「国の末端行政機関」に

1936年の二・二六事件で高橋が暗殺された後、極めて少なかった国からの助成が、補助対象事業の拡大、補助の新設で増加していきました。
上から住民全体を総動員するものに変質し、地方行財政の中央集権化が推し進められます。

背景には、地方が国の末端行政機関になっていく流れがありました。1932年(昭和7年)に施行された現在の生活保護法につながる救護法、医療・衛生関連に代表される国政委任事務の増加などです。

慢性疾患対策などで指導中心の行政へと変化し、きめ細かい対応が取られるようになりました。原敬が、中央官僚OBを町村長にして効率的な地方行政を実現しようとしていたことも、地方の「国の末端行政機関化」に対応したものです。

中央に吸収される地方

地方分与税制度の誕生

1930年代後半になってくると、国が戦争をするのに必要な経費の財源負担は、地方団体でなく国だという新たな考え方が生まれてきます。
日清・日露戦争では、国も地方も一緒になって戦争に臨むという考え方でしたが、これは国と地方の財政力が同等と考えられていたため可能でした。

困窮する市町村財政に、局関係経費の増加を引き受けろというのは無理な話になっていました。
1937年(昭和12年)には、応召軍人の家族の相談や世話が市町村に命じられ、1938年(昭和13年)には、市町村事務と関係の深い農地調整法と臨時農村負債整理法が施行、1939年(昭和14年)には市町村負担のもとに警防団が組織され、男子に7年の義務教育を課す改正青年学校令が実施されます。

そのような事態に対応できる財政構造にし、地域間の財政力格差を是正するため1940年(昭和15年)に導入されたのが、今日の地方交付税制度につながる地方分与税制度です。

地方の地主財源比率の大幅な低下

昭和15年の税制改正により、府県歳入のラストリゾートとされていた家屋税が国税に移譲、市町村歳入のラストリゾートとされていた戸数割が廃止され、課税最高限度を低く抑えた市町村民税が新設されました。

所得税の課税最低限も引き下げられ、それまで113万人だった納税義務者は1243万人と10倍以上になり、源泉徴収制度が導入されます。
また、従来の第一種所得税と法人資本税が統合されて法人税が創設されたのもこの頃です。

もともと、「所得税のような人に着目した人税は国、地租や家屋税のように物に着目した物税制を地方」という税源分離の考え方がありましたが、地方税の大黒柱の戸数割や家屋税を廃止したり、国税に移譲したことは、地方の自主財源比率の大幅な低下を招きました。道府県独立税、市町村独立税の比率は、1939年(昭和14年)の51.6%から、1943年(昭和18年)には15.2%まで低下しました。

このように、明治維新以降の近代化と、日本が複数の戦争を経験していく中で、徐々に中央集権国家が形成され、地方の方が豊かだった明治当初の姿から、国が地方交付金を地方にばらまく、現在の国と地方の関係性へと変化していったのです。

マニアックな話題が続きましたが、お付き合いいただきありがとうございました。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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