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感性と言語化:blueprint対談<落合陽一 x 山口周>

"つるてか"が美しいわけではない。時間が、歴史が積み重なり、不作為が積み重なり、想定よりも意外であり、いい子よりもわがままな子。結果として正弦波ではなくノイズであり、情報量が多いもの。これが美しいわけである。分かっていた。ただ、これを歴史的な視座を持って位置づける、意味づけるところがこのふたりの面白さ。

 YouTubeのタイトルはキャッチーを狙いすぎててどうかと思うけども...前・中・後編の計1.5時間ほど。

 取り上げられる興味が似ていて心地よかった。テクスチャーフェチの落合さんの嗜好もよく分かるし、音を撮りためている(もともとは音楽でやっていこうとした方だとは知らなかった)山口さん、マイクを買おうかとここのところ唸っていたところだった。そこまでは、そうだよね、と。ふたりとも共鳴しあって気持ちよく話しているのが見ていてこちらも気持ちがいいです。

 これをどんな視座で捉えて、どう意味づけるか。

 ”ケチャップ味のアメリカ”は置いておいて、ヨーロッパも単純化の方向に向かった。フルートは6世紀くらいに原型ができたが、それが進化する方向は誰もが弾きやすく、安定した音が出る方向へのイノベーションだった。一方、尺八は違う道をたどる。どんどん音が複雑化するように、運指を間違うように、進化が続いていく。それによって楽器自身の個性がでてくる、演奏者との相性がでてくる。

 街の景色をとってもそう。情報量の多い美しいものはいくらでも見いだせる、身体的に感じることができる。冒頭での書いた、"つるてか"な新しい建築は、これはこれでいいけども、情報量の少ない、正弦波の世界。ヨーロッパの街の、歴史に刻まれたグレージュの中に階層を見いだせる日本であるべきだ。その侘び寂びは、落ちていないわけではない、見いだせてないだけ。古びた配管にも、サバの背にも腹にも、朽ちていく塗装にも、擦れていく横断歩道にも、清掃員の手癖が刻まれていく壁にも、コンクリートにも、美しさを、侘び寂びを見いだせる力を育んでいくべきである。そして、本来、それを捉える感受性としてのリテラシーは日本人は極端に高いわけである。

 とても気持ちいいメッセージでした。そして、漏れていくのをちゃんと理解しながら言語化する格闘をすること、トレーニングをすること、位置づける意味づけることが必要なんだ、足りてないんだと改めて気付かされました。

 動画を見てないと意味のわからない投稿になってしまったかもしれませんが、覚書ということでご了承を。
 最後にもう一つ。パット・メセニーの西洋的な、正弦波的な実験が紹介されましたが、もう一歩押し進める音楽は日本から出ている。菊地成孔はTokyo Zawinul Bachで機械がランダムに奏でるベースラインに対してJazzの文法で即興演奏を重ね、Kikuchi Naruyoshi y Pepe Tormento Azucararでは極端に複雑な変拍子を人間の手で奏でている。後者は構造化しすぎた音楽に対するアンチテーゼだと理解していたが、欧州/日本の位置付け、Tokyo Zawinul Bachを経た後だということを鑑みると、西洋に対するメッセージともとれ、なお味わい深いです。

 表題写真は、街の侘び寂びのその一つでもあるかもしれない、東京のなんでもない100円パーキングに面するなんでもない壁に記憶された、なにかの形跡。New York Hell Sonic Balletに似合う。

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