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言われて嬉しい自分の気質

人から見た、自分の話を聞くことがある。

たまたま話の席でってこともあるし、就活していた時には「他己分析」として聞いたこともある。

ただ、一番に覚えているのは中学生の頃に言われたことばだ。

お昼の給食の時間、給食をもらうために列になって並んでいた。僕にそのことばを放ったのは、その時、僕の後ろに並んでいた女の子だった。

何か少し軽い会話をした後に、その子が微笑むようにニッコリと、そしてフフフと笑いだした。それから言った。「ゆやってなんか和むよね」と。

僕の頭からは、その言葉がずっと離れなかった。だからこうして今も覚えている。きっと、嬉しかったからだろう。

「和む」と言われることは、悪口でもなんでもなく、僕には褒め言葉のように思えた。

そのとき、「え、どーゆーこと?笑」と聞いたけれど、相手の子が笑ったまま、そこで話は終わった。だから、どういう所を見てそう思ったのかは分からない。

ただ、「なんか」と言っている当たり、それは雰囲気的なものだったのかもしれない。感覚的な何か。

ちなみに、僕の中での「和む」のイメージとしてはこうだ。

縁側に座っているときのこと。猫がヒョコヒョコ歩いてきて、庭に飛んでいる白い蝶々を捕まえようと、ピョンッと跳ねたり、タタタッと駆けたりする。

そして、疲れた後に陽の当たるところで日向ぼっこをしはじめる。そんな様子を、お茶をすすりながら見ている感じ。これが、僕の持つ「和む」のイメージだ。

そして和んでいる時は、少なくとも、温かさのある心だろうし、その心は決して、寒色に染まっているのではなく、赤みのある暖色で彩られているはずだ。

だからこそ、僕は「和む」と言われたことが嬉しかったし、今でも宝物のようにその言葉を覚えている。心の中に、大事に大事にしまってある。

少し前には、恋人や恋人の母が僕のことを「居心地が良い」と言っていた。恋人の家族と一緒に食べた夜ご飯の席でだった。

ちなみに、恋人の家に時たまおじゃまするし、時折料理を作ることや手伝うこともあるので、わりかし恋人の母とは、ちょっとしたことを話したり、聞いたりすることも多い。

僕はこの言葉を聞いた時、「和む」って言われたのと似ているなと思った。和むという感覚と、居心地が良いという感覚は似通っているからだ。少なくとも僕の脳内では、そうなっている。

だから、「居心地が良い」もやはり言われて嬉しい言葉だった。そして、「そうか、僕はわりかし居心地が良いと思われる人間なんだな」とも思った。

こうして自分で書いてみると恥ずかしいけれど、やっぱりそれは嬉しいことだ。

そう思うのは、自分が人に対してどういうものを与えられるのかを認識できたこともあるけれど、1番は自分にはそういう良さがあるとわかるからかもしれない。

というので、とりあえず何かを意識することなく、居心地の良さを届けられる人間でありたいなと、思う。

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