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重たいからこそ、やりがいがある

最近、大変なことほど、できた時の達成感が大きいと気づくようになった。

それは、インターン先の仕事でもそうだし、日々の中でも感じることもある。

僕はインターン先の仕事で、記事の添削や校正をしている。

校正は、基本的には誤字脱字や表記に問題がないかを見ることが主な仕事で、そこまで大変ではない。

一方、添削の場合、記事によっては、かなり手を加えることがある。記事は、4章の構成なのだけど、その構成が記事の内容と合っていなければ構成から変更するし、主語と述語が一致していないとかの細かな部分も見て変えることもある。

ちなみに、添削が必要なのは、書いている人が必ずしもライターさんや、書くことを仕事にしている人ではないからだ。そのため、より良いものにするために手を加える必要がある。

そして、添削の方が仕事の内容的に、校正よりも大変さが勝る。だから、僕は添削の方にいつもやりがいや達成感を感じることが多い。

校正の場合でも、達成感を感じることはある。ただ、それは、一つひとつのタスクというより、どれだけ効率的にこなせたかとか、そういう部分に目を向けることが多いとは、思う。

生活の中では、料理に感じることが多い。つい昨日、豚の角煮を作ったけれど、我が家には圧力鍋はないから、2時間とかかけて普通の鍋で作った。

だからか、食べた時にその時間分の美味しさをきちんと感じられた時は、とても嬉しかった。

ただ、反対にうどんとかカップラーメンとかを作る時は、だいたいお湯を沸かして茹でるだけだから、5分くらいで出来てしまう。

そういう時に、頑張ったなとかはあまり思わないし、美味しくても、嬉しいなとはなりにくい。

そう考えると、手間がかかるほど、そこに対しての感情移入は大きくなるのかもしれない。

もちろん、手間がかかりすぎてしまえば、そもそも終えるのは大変だし、反対に簡単過ぎても、感情移入するタイミングがない。

簡単すぎず大変すぎない。結果的にはそれくらいのものが、1番満足度が高いのかもしれない。

そして、大変さは自分で調節できる。効率よくやるルールや、制限時間を自分で作れば、コントロール出来るのだ。

将棋でいう、角落ちとか飛車落ちとか、そういうハンデもそういう調節のひとつだろう。

というので、簡単なら簡単にならないように自分でハードルを変えていくことを、どんなことであれ、やっていきたいなと思う。

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