ベビー用品店

     日記より26-18「ベビー用品店」        H夕闇
謹賀新年  珍しく夫婦で最寄りのH神社へ初詣(はつもう)で。けれども(慣れないことはするものでない、)参道まで百メートルに余る圧倒的な長蛇の列。仕方が無いから、社殿の脇(わき)でコッソリ巫女(みこ)さんに尋ねたら、おみきだけ土器(かわらけ)で頂(いただ)けた。愚妻の紙コップ甘酒と「あけおめ」乾杯。
 それから、普段は別行動で散歩するN公園へ。りすを見掛(みか)けた木々や野鳥の種類など諸々(もろもろ)を紹介された。
 広い公園を出外れて、更にA大橋を渡り、災害復興住宅やマンションの真新しい家並みを抜けると、スッカリ葉を落とした大いちょうが屹立(きつりつ)する。その根方には、ヒッソリうらぶれた社(やしろ)が一つ。鳥居にD神社と銘(めい)が有り、道祖神なども多数。杉林を欝蒼(うっそう)と背負い、嘗(かつ)ては界隈(かいわい)で鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)だったのだろう。
 付近に古い井戸が残り、屋根と滑車(かっしゃ)の付いた鶴瓶(つるべ)も保存されている。ここらに有料老人ホームを建設する前には、きっと古い民家でも有ったのだろう。自動販売機で缶(カン)コーヒーなど買って、ベンチで一服。
 帰り道のN川では(旧年中の日記に時々書いた)はぐれ白鳥と再会。やはり本日も一羽きりだった。仄(ほの)暗(ぐら)い入り江でヒッソリ白く水鏡に浮かぶ様が、とても絵になる。
 堤(つつみ)を帰る道すがら、子や孫の将来について老夫婦は噂(うわさ)話しに花を咲かせた。このテーマが、一番やはり盛り上がる話題である。皆それぞれの運命を背負って、でも何とかかんとか生きて行くのであろうけれど、あれこれ気を揉(も)んだ所(ところ)で所詮(しょせん)なるようにしかならない事柄を、ジージとバーバは大いに密談し合った。
 
 昼前に帰り着いた玄関脇の郵便受けで、(一頃よりズッと少なくなったが、)年賀状の束を見付けた。
 教え子の写真が少しく年齢を重ね、(幼子(おさなご)だけなら未(ま)だしも、)もう孫まで一緒(いっしょ)に映っていたりする。幸せそうなのは御同慶に堪(た)えないが、恩師としては複雑な心境だ。あの未熟な程に溌剌(はつらつ)とした生徒たちは、今いづこ。めがね美人と仇名(あだな)された女子高生が、今や娘の娘と頬(ほほ)笑(え)むのは、グッと来る物が有る。「荒城の月」じゃないが、矢の如(ごと)く過ぎ去った光陰の後姿が、何とも儚(はかな)い気がする。僕としては、どうにも切ない。
 
 その中に、驚愕(きょうがく)を誘う四枚の郵便物。差し出し人は全て同一人物である。即ち、四枚連続の近況報告なのだ。「あけまして」云々(うんぬん)と有るから、一応は年賀状の体裁(ていさい)であるが、一枚一枚パッチ・ワーク状に小さな写真が散りばめられている。それも、表も裏も全面的に写真だらけのモザイク状態なのだ。
 きっと郵便屋さんは宛(あ)て名書きを探すのに苦労したろう。それとも、(担当者が替わっていなければだが、)「ああ、毎年あの家へは変わった年賀状が届くから、例のH家だな。」と、宛て先が写真の氾濫に埋没していても、届け先の察しが付くのかも知(し)れない。お蔭で、我が家は郵便局で有名になったやも知れぬ。
 
 さて、謎(なぞ)のパッチ・ワークを読み解くに、徘徊(はいかい)老人さながらの旧友H氏は、地図も持たずに某(ぼう)町民バスに乗り込んだそうだ。そして、方々いなか町を乗り回ったらしい。むすこのK君も時々同行するようだ。そして、気が向けば、フラリと途中下車。野山の遠足は無論、昔はテントを担いで家族旅行を楽しんだものだ。
 多趣味な人で、カメラは手放さない。一時は木造校舎に凝(こ)ったものだが、近年は山(やま)法師(ぼうし)や葛(くず)の花など草木に凝(こ)る様子。時には一句、風流に及んで、それを小写真の添え書きとする。
 鉄路が仙石線へ乗り換える直前の(東北線の塩釜ー松島間)トンネルは、僕も退職前に通った。
 東北新幹線(宇都宮ー大宮)の車窓から遠く富士山を眺(なが)めるのは良いとして、気になる写真が一枚。富岳を鳥瞰(ちょうかん)する構図だ。仙台空港らしい待ち合いロビーも映っているから、このヒントから察せよ、と言うのか。差し詰め、飛行機に乗ったのだろう。高層ビルの展望室は、まさか富士山付近には無いだろうから。
 或(ある)一葉は、山車(だし)や踊りの写真が満載。恐らくは、武家屋敷きで有名な角館の祭りを見に行ったのではないか。ぼや騒ぎで幼い頃の写真を全て失ったと言うH氏だが、笛や太鼓の祭り囃(はや)しで遠い記憶の襞(ひだ)がボンヤリ蘇(よみがえ)ったとのこと。辿(たど)り得た古里の音は、いやが上にも望郷の思いを醸(かも)したに違い無い。
 それは、僕が教え子の年賀状で呼び戻された時間の感覚と同質だったのではあるまいか。悲しい程に懐かしい回顧の情は、年齢を重ねるに従って、層を増す。忘れては思い出す、老木の年輪のように。
 
 旧年中のフライングも含め、足掛け二年で合計七葉の連載賀状。七枚も連続した年賀状と云(い)う物を、定めし世の人は知るまい。又これを日記ブログの餌食(えじき)にしてやろう、と僕は悪魔の笑いをニンマリ笑った。(例に依(よ)って、多少の編集を乞(こ)う御容赦。)
 では、良い年を。 草々 令和五年元日(日曜日)曇り   (Eメールより)

謹賀新年  この新しい年がN先生に御多幸な一年となりますよう、遠い第二の故郷から願っております。
 又、歳末には豪華(ごうか)絢爛(けんらん)の牛肉を頂戴し、大変に有り難く、(何せ我が家では松坂牛など前人未踏、空前絶後。)長女K夫婦が年賀に訪れるのを待って、きょう二日に好き焼きとし、皆で盛大に頂きました。
 好き焼きと言えば、おじさんの最後の誕生日に我が家で鍋(なべ)を囲んだことを思い出します。先生の一番弟子(でし)のTちゃんが迎えに行った車の中から既に癌性(がんせい)悪寒(おかん)を発し、多くは食べられなかったのが、残念でした。病院へ電話連絡した所、食べずに戻るよう指示されたけれど、先生は構わず、持参した鰻(うなぎ)も口元へ運んだのが、今も思い出に残ります。        正月二日(月曜日)雪         (年賀状より)

             正月三日(火曜日)晴れ+凩(こがらし)
 好き焼きの前に、実は僕らは娘夫婦と四人でベビー用品店へ買い物に出掛けた。それをN先生に知らせなかったのは、孫のようなKに出産祝いを張り込むかも知れないからである。何しろ金銭など無頓着(むとんちゃく)な浮き世離れした人柄だから、豪華絢爛たる襁褓(むつき)(おしめ)など送って来るかも知れぬのである。
 僕らジージ&バーバは、質素にて安価なる哺乳瓶(ほにゅうびん)やスタイ(涎(よだれ)掛(か)け)を妊婦に購入。なぜか婿(むこ)殿はおしゃぶりに御執心(ごしゅうしん)の様子で、その陳列棚から中々(なかなか)離れないのが愉快だった。                           (日記より)
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新(あらた)しき年の始めの初春の今日(けふ)降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) 大伴家持(おおとものやかもち)                  (万葉集より)

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