行動制限の無いGW3
日記より26-5「行動制限の無いGW」3 H夕闇
入浴施設と言えば、亡父の生前、未だ免許を取り立(た)てだった長女Kが(付き添いの僕も一緒(いっしょ)に)G湯N店へ送迎してくれたっけ。震災で閉店してしまったけれども。
きのうの蒸(む)しぶろでは、浴室内のテレビ画面に、S国際ハーフ・マラソンが中継放送された。一旦は乾いた肌から、細かい汗の粒が滲(にじ)み出るまで我慢したが、映し出されるのは招待選手ばかり。実は、この大会にKも参加している筈(はず)だった。夜の電話では、娘は八キロ地点でタイム・オーバー。ゴールまでバス輸送されてしまったそうで、大いに悔やしがった。
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そのKからEスキー場へ誘われたのは、連休前半の今月三日(憲法記念日)だった。スキー場と言っても、この季節、滑りに行った訳では無論ない。雪の消えたゲレンデに水仙が植えられ、G・W(ゴールデンウイーク)に時を合わせた如(ごと)く、一斉(いっせい)に咲くそうだ。娘の婿(むこ)殿T君の母堂が発案して、一面の花畑へ三家族合同で行楽に及んだ。
僕らは娘夫婦の自動車にN駅で拾ってもらい、延々と南へ向かう。沿道の田には水が引かれ、蛙(かえる)の声が懐かしかった。いなか育ちの僕には、夜な夜な枕(まくら)で聞いた田(た)ん園(ぼ)の合唱団である。
車窓から望む白いZ連峰の向こう側には、斎藤茂吉の古里が有る。昨年末に娘の嫁ぎ先のT夫人から喪中葉書きが届き、故郷M市に住む母堂が他界したとのこと。僕は歌集「赤光(しゃっこう)」から連作「死にたまふ母」全五十九首を書き写して返信し、悔やみを述べた。
死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞ゆる 斎藤茂吉(「赤光」より)
又この細いいなか道には見覚えが有った。同じくK夫妻から誘われて、県南の梅林を見に行った早春にも、ボンヤリ思い出したのだが、嘗(かつ)てZ山の麓(ふもと)に勤めた頃、同僚の車に便乗して、時々この裏道を週末に帰省したのだった。
職場にはスキー狂(マニア)の同僚が多く、お負けにZ分校ではスキー教室を催(もよお)すので、体育教師から指導法の伝授を受ける必要も有って、よく皆でEスキー場へ繰(く)り出(だ)した。日暮れの五時に勤務時間が終わると、ジープに乗せられ、三十分後には雪上に立てる地の利も有った。
未だナイター・スキーなど無い頃で、夜にリフトは動かない。だからレスト・ハウスの明かりを頼りに自(みずか)らラッセルを踏み、登っては滑った。一冬使えるリフト券を買い、休日だけでも元が取れたと記憶する。山の分校へ赴任した若い職員たちには、それ位(ぐらい)しか娯楽が無かった。
僕らのゲレンデで水仙祭りを開催、とのニュースは前々から知っていた。心を惹(ひ)かれ乍(なが)らも、実際に来たのは今年が初めてだった。娘の舅(しゅうと)T氏は毎年O町の花見を望むが、今年もコロナ禍(か)で桜祭りは中止。行き帰りの鉄道も、大変な混み様だろう。それなら桜の代わりに水仙を、と提案したのが姑(しゅうとめ)T夫人だそうで、嫁(僕の娘)を通して誘いが来た。提案者は新米教員たちの古戦場とは思い至らなかったろうが、この偶然が僕には大変に有り難く、懐かしかった。
然(しか)し、僕らの車が先に着き、間も無くT君の両親も到着した時、山は冷たい霧雨に咽(むせ)んでいた。更に本降りになった。傘(かさ)を差して花畑を見て回る観光客もチラホラ居(い)たが、僕ら一行は無人の古惚(ふるぼ)けたレスト・ハウスへ逃げ込んだ。あの頃より大きな建て物が幾(いく)つも増えて、それかどうか、今一つ確信が持てないが、位置関係からすると、多分これらしい。
鍵(かぎ)だけは開いていたが、相客は無く、机や椅子が並んでいるばかりで、殺風景(さっぷうけい)だ。商売気は更に無く、自販機一台さえ置いてない。その昔、ここに元気なスキーヤーが集(つど)ったのだったろうか。何だか不思議な感じがする。別の場所だったような気もする。けれども、破風(はふ)が横に広い山小屋風(ふう)の屋根に、数台の大型ライトが取り付けられ、今もゲレンデの方を向いていた。
窓から山容を見渡せる席に陣取った三夫婦六人、所在(しょざい)なく持参の駄菓子(だがし)など摘(つま)み乍(なが)ら、訥々(とつとつ)と昔話しが始まった。以前このスキー場で、、、と僕が口火を切った。
その懐旧談も尽き、この侭(まま)で帰らねば成(な)らぬか、と皆が諦(あきら)め掛(か)けた頃、山上で雲が切れ、唐突(とうとつ)に青空が拡がった。いざゲレンデへ、と(昔ながらに)飛び出したのは、言うまでも無い。
スキーヤーが綱(つな)に掴(つか)まり股(また)に挟(はさ)んで滑り上がるTバーという施設が、左の隅(すみ)に一列(一人乗りのリフトとは別に)有った筈(はず)だが、それが無くなっていた。今ゴンドラが有るのが、その位置だろうか。僕らの時代の後、スノー・ボード(スノボ)が急に流行し、主流になると、もう使われなくなったのだろう。スキーが取って代わられた時代の趨勢が、目に見える形となって表れていた。
Tバーを知っているか、と験(ため)しにボーダーのKに尋ねてみると、キョトンとしている。義父T氏は、無論だ、と言わんばかりに、強く頷(うなづ)いた。
膝(ひざ)に自信の無いT氏は、水仙畑の下に留まり、新入社員時代に就(つ)いてボツボツ語り始めた。聞き手は、嫁Kと僕。隣県のAスキー場などで、スキー客がコースから飛び出さぬよう、防護(ぼうご)柵(さく)を設置し、維持管理する仕事をN社が請け負ったそうだ。それを担当して、二冬。自分たちも大いに滑ったが、シーズン末に骨折して以来、已(や)めたそうだ。駆け出しの頃の思い出である。
下山して来た三人と交代し、遠く太平洋まで見渡せる山上の景色を堪能(たんのう)。その後、麓のT温泉街で昼食を摂(と)りつつ話したのは、その妻T夫人だった。地元M市で保母(今日に云(い)う保育士)に採用され、朝に夕に一山を越えるバスで通ったそうだ。若い同僚と一緒だったと言う。
赴任先は、世界一高い防潮堤で有名になったT地区。その高ささえ大震災の津波は乗り越えた。十一年前に被災して時々テレビに映る地元ホテルの主人は、高校時代の同級生とのこと。
T夫人は朗らかに笑い、屈託(くったく)が無い。その語り口に人柄が表れているように、僕には思われた。又、姑は(図(はか)らずも)嫁Kと同業者。仕事に理解が有るのも、道理だ。
(日記より、続く)